2025年3月16日 朝礼拝『キリストを着て』 石川立副牧師

創世記1章24-31節   ガラテヤの信徒への手紙3章21-29節

 

 本日のガラテヤ書の箇所には、まず律法の役割が述べられています。この手紙が書かれたころ、ガラテヤの人々は、救われるためには律法を守らなければならないという、ユダヤ人キリスト者の教えになびいてしまっていました。律法とは「救われるためには、これこれのことをしなければならない」という脅迫じみた救いの条件の象徴です。律法の役割は、キリストが到来する前に、人々を罪の闇の中に閉じ込め、人間を「養育」することでした。しかし、キリストが来られたからには、救いの条件は取り払われました。キリストは人々を罪の暗闇から解放してくださいました。人が「義」とされるには、キリストの十字架で十二分なのです。

 3章28節には「キリストを着る」という表現が見られます。この言葉は「受洗してキリストの中へ入る」という表現の言い換えです。ローマ書13章12節以降やエフェソ書4章22-24節の言い回しも考え合わせると、「キリストを着る」とは、古い生き方・考え方を捨て、洗礼によってキリストの中に入り、キリストにつながり、導かれて、新しい生き方・考え方をさせていただくことだと言えます。これはまた、私たちがキリストを通して新たに創造され、「神の似姿にわたしたちが造られた」その恵みを、キリストによって新たに与えられるということです。新しい人に差別的な違いはありません。ただ、解放され・新しくされた者には責任も伴います。それは、キリストの御苦しみを仰ぎ、キリストの軛を共に担う責任です。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と主はおっしゃいました(マタイ11章28-30節)。

 私たちはキリストを着せていただいた者たちです。救いの条件から解放され、キリストの恵みと愛を受け、救いを得させていただいた者として、キリストの御苦しみを仰ぎ、キリストの軛を共に担いながら、しかし、解放の喜びをもって、キリストに従うという新しい生き方を歩む者でありたいものです。