マタイ4:1~11,申命記30:15-20
イエス様の前に現れた悪魔、誘惑する者とは、怪物ではなく、人間にとっては裁判における検察官のような存在です。果たして本当に罪があるのかないのかを細かく執拗に嗅ぎまわり、罪があるならば徹底的に暴いて断罪する。石をパンに変える、とは果たしてどういうことでしょうか?人間を救うとはどういうことかが問われているのではないでしょうか。聖書でいう石とはキリストを象徴する言葉です。人間たちの空腹を満たすために、人間たちの命を救うために、神の子キリストがパンとなって人々を食べさせるということはありでしょうか?悪魔は、神の子がパンになってまで、この人間世界を食べさせ、満足させるだけの価値が、意味が本当にあるのか?そして人間たちには、キリストを食べてまで、お前たちは生きたいのか、それだけの価値ある命、それだけの資格があると思うのか、と問いかけています。私たちは何と答えることが出来るでしょうか。もちろん、神様が愛してくださった命なのです。神様が与えてくださった命なのですからと言うことが出来ます。さて誘惑する者は、神殿から飛び降りてみろ、神様はあなたを守られるだろう、と言いました。イエス様は、神様を試みてはならない、とおっしゃいました。悪魔は言います。あなたは神の子キリストです。あなたは人間たちを救い出すために来られた。ならば、神様を信じられず、神様に背き続けている人間と同じようになったらどうだ。しかし罪を犯した者を救うために同じ罪を犯さなければ救えないのでしょうか。必要なのは、人間の救いに、命には神様の愛がなくてはならいということです。神様の愛がいつもあるから、人間たちはそれを頼りに光を、希望を探し出すことができるのです。最後に、誘惑する者がイエス様に問いかけたのは、世界を見せて、私にひざまずき、私を崇めよ。そうすれば世界はお前のものだと言いました。神様が求めているのは、人間が、世界が、神様のもとに戻ること、神様の愛の中に戻って来ることです。私たちの救いは、私たちの命は、私たちの世界の希望は、神様にあります。神様の愛を信じることにあります。