2025年1月19日 朝礼拝『キリストの福音を信頼して』石川立副牧師

創世記15章1-6節 ガラテヤの信徒への手紙3章1-14節

 

本日の新約聖書の箇所には、人が義とされるのは、律法の遵守によるのではなく、信仰によるのであると書いてあります。自分を省みて信仰を吟味し強い信仰を持つように厳命されていると読むこともできます。しかし、本当にそうでしょうか。

ふつう信仰と訳されるのは原語のギリシア語ではピスティスといいます。しかし、ピスティスは人間の信仰よりももっと深く豊かな意味合いをもっています。神のピスティスもありますし、キリストのピスティスもあります。この言葉は、真実、誠実さ、ウソのなさ、純粋さ、私心のない信頼や信仰などの意味を含んでいます。

ガラテヤの信徒への手紙3章1節でパウロは言います。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。このキリストの十字架の姿はウソのないまことの御業であり、神のピスティス・真実を、私たち人間にも分かるように示してくださいました。キリストの十字架を通して神のピスティスが示され、それを聞き入れることで人間の側もピスティス・信頼(信仰)をもつことが可能になるのです。

3章7節以降で「信仰」という語が繰り返されています。これは単なる人間の信仰ではなく、神のピスティス・真実、キリストのピスティス・まこと、人間のピスティス・信頼が一体となったとも言うべきピスティスの世界のことです。「信仰によって生きる人々」(7節)とは、キリストの十字架を信頼しきってピスティスの世界に触れ、その世界のなかに生きている人々のことにほかなりません。

私たちは、自分がしっかりした信仰をもっているか心配になることがあります。しかし、自分の心の中を覗き、信仰を査定してみてもしかたがありません。パウロが述べているように、キリストが十字架にかかられた姿をしっかり見つめ、それを宣べ伝える福音のことばを聞き入れ、神とキリストのピスティスに信頼(ピスティス)を置くことが何よりも求められているのです。