創世記37章5-9節 マタイによる福音書1章18-24節
小さい頃の夢を実現する人たちがいます。他方で、夢を実現できなかった多くの人たちもいます。夢が破れ、夢をいだいていた自分自身が折れてしまう、そのことで自分に失望することはままあることです。しかし、夢が実現せず、紆余曲折したほうが、人生は意義深いとも言えます。挫折のとき、神様に<触れる>ことができます。以下、お話しするイエスの(地上での)父ヨセフは自分の信念を貫けなかった人です。
創世記に登場するヨセフは夢を見る人ですが、他の人の夢を解くことで、奴隷として売られた土地エジプトで大出世をしました。彼はファラオの夢を解き、飢饉の備えを提案しました。この結果、飢饉に見舞われたイスラエルの民がエジプトに逃れてくることになり、出エジプトの奇跡につながっていきます。ヨセフは神の救いの伴走者でした。
マタイ福音書のヨセフはマリアと婚約していましたが、マリアが身重になっていることが判明します。ヨセフは正しい人、つまり律法を忠実に守る人でした。本来、彼は正義感にもえ、マリアを裁くべきところでした。しかし、マリアを不憫にも思い、彼女をひそかに離縁しようと決心しました。思い悩むヨセフは夢を見ました。神のみ使いが夢に現れ、マリアを迎えるように命じます。また生まれる子をイエス(ヤハウェは救い)と名付けるよう指示します。福音記者は、その救いはインマヌエル(神我らと共にいます)という救いだと述べます。ヨセフはマリアとおなかの子を受け入れました。彼は自分の正しさを貫かず、イエス(救い)を育てて、神の救いの伴走者になります。
私たちの正しさや誇りなどが神の救いのご計画を妨げるならば、神様は、人間を中心とした私たちの思いや自我を砕き、神の愛・救いを実現しようとされます。私たちは身を固くして神様の愛を拒むのではなく、<神様が共にいてくださる>その愛に身も心もひらいて、神様の救い・イエス・インマヌエルをお迎えしたいものです。