イザヤ2:1~5,マタイ24:36~44
その日、その時は誰も知らない。いつそのようなことが起こるのかは誰も知らないのです。日時は誰も知りませんが、そのような日が来るであろうこと、そのような時があるであろうことは、知らされて来ました。つまり日時の問題ではないということです。いつと定めることのできないことが大切なのです。それは果たして何か、それはおそらく命のことであり、人生のことではないでしょうか。私たちは自分たちの命の時を知りませんし、自分たちの人生がどのように進むのかも知りません。何も知らなくてよいのか。知る方法があるのか。それに対しては今日の御言葉が示されています。その日、その時は誰も知らない。私たち自身のことですが、自分たちも知らない。誰も知らないのです。知っているのは神様だけです。本当に不思議な私たち人間の命、人生です。そしてすべてをご存じである神様がおられるのなら、やはり私たちの命と人生は、神様と共にあらなければならないということです。そのために、神様の山、主の神殿の山は、どの山よりも高く、大きく、力強くそびえたっています。誰もが見えるように、誰もが聞けるように、主の山はこの世界に高くそびえ立ち、人々は必ず主の山を見るでしょう。人々は言っています。主の山に登ろう、と。何故なら、神様は私たちに道を示されるから、と。私たちの命が歩む道、私たちの人生が歩む道を示してくださるのは神様だけだからです。主の山を目指し、主の山で神様の御声を聴き、示された道を歩むのが私たちの命と人生の最上の事柄です。神様は必ず私たちに主の山を示し、見せてくださり、私たちが歩む道を示してくださいます。その道は、剣を打ち直して鋤すること。槍を打ち直して鎌とすること。もはや戦うことを学ばない、平和の道であるのです。それを神様が求め、示してくださっています。主の山に登る皆さん。主なる神様が輝かせてくださるその光の中を私たちは歩んでいるのです。主の山を目指して上り続けましょう。