2024年10月20日 朝礼拝『真実を見る』石川立 副牧師

イザヤ章6章1-8節 ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節

 音や言葉は聴覚を通じて人の中に入りますが、他の感覚とつながることによって、人は音や言葉を一つの感覚で捉えるよりももっと深く理解し、その意味やメッセージと出会うことができるようになります。

 ガラテヤ書3章1節で、キリスト者であるためには律法を守ったほうがよいと考えるようになったガラテヤの信徒たちをパウロは叱っています。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」。このキリストの十字架の姿とは、2章で言われている「キリストの真実」(聖書協会共同訳。新共同訳では「キリストへの信仰」)のことです。かつてパウロは、ガラテヤで伝道する時、イエス・キリストが罪ある人間のために十字架にかかってくださったこと(真実、誠実、まこと、まごころの業)を説きました。ガラテヤの人たちはこの説教を聞き、キリストの十字架の姿を強い想像力をもって目の前に見たのです。ところが、神と人間の壊れた関係を信頼関係にしていただくのは、キリストの真実で十二分でしたのに、ガラテヤの人たちはその恵みを忘れてしまいました。

 イザヤ書6章でイザヤは五感を全開にして神の言葉を受け、言葉のメッセージを理解することができました。椎名麟三(1911-73年)は、ルカ24章36-43節の復活後のキリストの姿を、五感を全開にして読み、キリストの世界に参入し、イエスの死と復活の真実を理解して、その真実に全幅の信頼を置くことができました。

 聖書を通して私たちは今日でもキリストの十字架の姿を受け取ることができます。キリストの姿の真実を忘れてしまったガラテヤの人たちの受け取り方にとどまることなく、私たちは五感を全開にして、イエス・キリストの姿に向き合わせていただきたい。イエス・キリストの世界に私たちも参入させていただき、キリストの姿という真実に出会い、この真実、誠実さ、確かさ、間違えのなさに私たちの全幅の信頼を置かせていただきたいものです。