エレミヤ書1章6-10節 マタイによる福音書28章16節-20節
長くキリストから離れて生活していた私。そんな私をイエスへと繋ぎ、信仰の道へと導いたのは病に伏せ、残された時間が僅かとなった母の「イエス様と手を組む」という一言と病と闘った母の姿でした。母は信徒でこそあれども牧者ではありませんでした。けれど、確かに母は私をイエスに繋いでくれたのです。私たちが礼拝に出席し、そうして今日に至るまで礼拝を守ってきた背景には、何らかの理由で初めて礼拝に出席したときに誰かが私たちをイエスに繋いでくれたからなのではないでしょうか。イエスは弟子たちに今日の聖書箇所の19章と20章で宣教命令を発します。そして聖書を通して今日の私たちにもその命令が発せられているとすれば、私たちもまたイエスの弟子と言えるのかもしれません。私たちは誰かをイエスに繋ぎ、洗礼に導き、これに参与することでこの命令に従っているのだと思います。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」これは私たちと共にイエスがいるだけでなく、私たちがイエスと共にいるとも読めて、私たちはイエスがあらゆる時と場所で伝道をする先々に伴われ、イエスの伝道に参与していると言えるのかもしれません。また、私たちと共にいる神は伝道に参与する私たちをこの言葉で強めてくださいます。旧約聖書の出エジプト記4章や今日の聖書箇所でモーセも預言者エレミアも召命に際して、自らの未熟さを口にして自分が適していないことを憂いますが、主が共にいると言われ、強められています。また、パウロはキリストを根拠に優れた言葉や知恵を用いることなくとも御心を宣べ伝えることが出来ていると語ります。たとえ優れたものを持っていようがいまいがキリストが共にいて私たちを強めてくださるから、イエスも、わたしも、あなたも主の福音を宣教する弟子なのだと言えるのでしょう。