2024年9月15日 朝礼拝『キリストに出会う場所』石川立副牧師

イザヤ書53章2-10節 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

 ガラテヤ書2章19-20節によると、パウロは罪から逃れられない自分自身に絶望し、生きているのは私ではなく、キリストが自分の内に生きておられるのだと気づきました。パウロは自分の内でキリストと出会ったのです。

しかし、キリストと出会う場所は私たちの内だけではありません。イザヤ書53章には、人から軽蔑される「主の僕」が「私たち」の苦しみや病を担っているのだとあります。初代のキリスト教徒は、この「主の僕」をイエスと解釈しました。そして、みじめな姿で苦しむイエスという場所で、メシア=キリストと出会いました。

大江健三郎の小説『新しい人よ眼ざめよ』では、「僕」は知的障害のある長男の現在と将来を心配しています。しかし、長男のほうはちゃんとしていて、むしろ、「僕」のほうの醜態が目立ちます。この小説に添えた文章の中で大江は、詩人ブレイクの詩から「僕たちの嘆きが消え去ってしまうまで/あなたの造り主(キリスト)は僕たちのそばに坐りうめいていてくれる」(筆者変更)という詩を引用しています。この詩を受けて大江は書いています。「私は無信仰でありながら、光(長男)が発熱して苦しんでいる真夜中など、この詩をつぶやいては、光に彼の「造り主」が現れてくることを祈ったりもしたものです」(筆者変更)。続けて「・・・それよりもしばしば、自分自身の深い困難のなかで嘆いている私の、そばに坐ってうめいていてくれたのは、他ならぬ光であったようにも感じるのです」。知的障害を担い、人から時に軽蔑され、苦しんできた息子に、作家はキリストを見たのです。 

 マザー・テレサにとってのキリストは、路上で死につつある、貧しい人々でした。彼女は死に瀕した一人ひとりをキリストとして見、接していたのです。

 私たちがキリストに出会う場所は身近にあります。私たちにとってキリストは、案外、私たちが助けている相手、私たちが心配している相手なのかもしれません。