創世記12章1-3節 ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節
ガラテヤ書2章16節には、新共同訳と新しい翻訳である聖書協会共同訳とで、重大な違いがあります。新共同訳では、私たちは律法の遵守によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされると言われています。続いて、そのことを知って「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」とあります。「義とされる」とは「罪ある者が赦される」という意味です。「救われる」とも理解できます。新共同訳の書き方からは、信じれば救われるが、信じなければ救われない、という図式が成り立ちます。一方、聖書協会共同訳では、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」とあります。ここでの「真実」は「まごころ」と言い換えればわかりやすいでしょうか。神は御子イエス・キリストを十字架と死と復活の道へと送られ、御子自身も神の御心に従いました。そこに人間を救おうとされる神と御子の「まごころ」があります。この「まごころ」によって、神と人間の関係を悪化させる私たちの罪が赦され、私たちは義とされたのです。私たちが救われるための条件は、人間の側にはいっさいないのです。
創世記12章冒頭で、神は唐突に、まだ何の勲しもないアブラハムを祝福されました。また、ガラテヤ書の著者パウロは、熱心なユダヤ教徒として、当時まだ異端であった新参者のキリスト教を弾圧していました。ところが、そのパウロを神は一方的に選んでその罪を赦し、キリスト教宣教の最前線に送り出したのです。
神が私たちの罪を赦し、私たちを義とされるは、私たちの側の理由によるのではなく、キリストの「まごころ」によるのです。この「まごころ」にお応えして、イエス・キリストを信じさせていただき、「まごころ」に対する感謝のしるしとして、私たちは善い行いもし、お献げものもする者とさせていただきたいものです。