エゼキエル43 1-7 マタイ28 16-20
その准允式を目の前に、私は自分の罪深さに狼狽えていた。思い起こせば、小学生時代にいじめを受け、友達を得るために嘘をついた。その結果、友達からの信頼を失い、家族を裏切り、盗みを働く結果となり、自身の罪深さに苦しむこととなった。そんな時、牧師であった父が教えてくれた「二つの足跡」という物語を通じて、神が常に共にいることを確信した。この物語では、「わたしが一番苦しい時、一番あなたを必要としていた時、あなたはどこに行ってしまったのですか?」という問いに、主が「私はずっとあなたと共に居た。あなたが見た一つの足跡は、私があなたを背負って歩いていた足跡だ」と答えたものである。私たちが弱い時、主は必ず伴ってくださるのである。マタイ28章16-20節では、イエスが昇天する直前に、疑いを持つ弟子たちを信じ、宣教命令を下し、派遣したことに改めて注目したい。この聖書箇所では、神は、私たちの弱さを受け止めてくださり、神のご計画の内で私たちを用いてくださるということ強く思い起こさせるものである。かの有名なキング牧師が弱り切ったとき、彼の祈りに主イエスは答えられた。「わたしは世の終わりまでいつもあなたとともにいる」と。その後のキング牧師の活躍は目覚ましいものであった。一方、私たちはキング牧師にはなれない。しかし、この教会で礼拝を守り、信徒と祈りを合わせることはできる。その賛美と祈りが、今の私たちが知る由もない、思いがけないところで宣教の業、信仰継承として機能しているのである。私たちが、生きている間にその時は来ないかもしれない。しかし、いつか、イエスと出会いイエスが救って下さると信じている。私たちが見ているこの世のすべては、神のご計画の内なのである。だから、私たちは、その日を信じて、今日も来週もこの教会で礼拝し、祈り、主の福音を語り続ける。「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」。