2024年5月19日 朝礼拝『異邦人への使徒』石川立教師

創世記11章1-9節 ガラテヤの信徒への手紙2章1-10節

 

 本日はペンテコステ主日です。使徒言行録2章によれば、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちが一つ所に集まっていると、聖霊に満たされていろいろな言葉で話し始めました。この出来事は、言葉を異にする人々は主にあって一つであるが、福音はいろいろな言葉で語られるということを予告していると思われます。これは、人々が言葉も住む場所もバラバラにされてしまった創世記11章のバベルの塔の神話とは対照的な出来事です。

 ガラテヤ書2章では、パウロは自ら「異邦人への使徒」と名乗っています。当時、エルサレム教会の人々は、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)への伝道には無関心でした。彼らはユダヤ人であることを大事にしており、異邦人にもユダヤ人のようになることを求めました。他方、パウロは、ユダヤ人のようになるというような条件を取り払い、異邦人に本当の福音を伝えることを自らの使命としていました。

パウロは、復活のキリストから直接、まだ言葉になっていない福音を受けました。そして、言葉になっていない福音の原型を言葉化していきながら、宣教の旅をし、各地の教会に手紙を書いていきました。「異邦人への使徒」であるパウロとその弟子たちのお陰で、一つの福音が、民族の枠を打ち破り、全世界各地へと広がり、極東の日本に住む者にまで届きました。

私たちが努力し、ユダヤ人のようになって、私たちのほうから福音を取りに行くのではありません。義務や課題をこなし、様々な条件を私たちがクリアしてやっと福音が私たちに届くのでもありません。いっさいの条件なしで、神様は聖霊の力によって異邦人である私たち一人ひとりに福音を届けてくださっています。この福音の迫りに対し、私たちは身と心を開いて福音を受け取りたいものです。そうなれば、聖霊が私たちの口に福音を乗せてくださり、私たちは外国の言葉ではなく、自分の言葉で福音を語ることができるようになる―このことを深く信じたいものです。