アモス書7章10-16節 ガラテヤの信徒への手紙1章11-24節
まだサウロと呼ばれていた青年パウロは、ユダヤ教に人一倍熱心で、キリスト教会の迫害者でした。当時、キリスト教は「この道」と呼ばれ、ユダヤ教の異端と捉えられていました。熱心なユダヤ教徒パウロは、異端であるキリスト教を強い正義感をもって迫害していました。しかし、青年パウロは復活のキリストに出会わされ、彼の誇り、正義感、ユダヤ教への熱心さは一挙に崩れ落ちました。パウロは敗北したのです。このときパウロは復活のキリストという福音を示されました。
パウロは「ガラテヤ書」のなかで、自分が使徒であることを主張しています。これは承認欲求の発露のように見えますが、そうではありません。パウロにとって、使徒であるということは、復活のキリストに出会わされ、敗北を経験し、キリストという福音を与えられ、これを宣べ伝える重い責務を背負うことでした。
パウロは、復活のキリストから直に与えられた福音を伝える使徒にされましたが、紀元前755年頃に活躍した預言者アモスも、「家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者」でしたが、その人生を挫折させられ、神の言葉を告げる預言者とされました。
パウロは復活のキリストに出会わせられ、真の福音を宣べ伝える使徒にされました。パウロが受けた福音とは、彼が出会った復活のキリストその方です。ですから、パウロが受けた福音はまだ人間の言葉になっていませんでした。パウロは、復活のキリストに向きあい、この方を福音として人間の言葉に変えていきました。こうして、パウロの福音の宣べ伝えが始まったのです。福音そのものである復活のキリストを言葉に直し、手紙に書いていきました。これが私たちの手元の聖書にそのまま残っています。私たちがもっている聖書の、いわば紙の裏に福音そのものであるイエス・キリストがいらっしゃるのです。聖書の紙の裏にましますイエス・キリストに出会うため、私たちは、眼光紙背に徹す、聖書に親しみたいものです。