2024年2月25日 朝礼拝『その方を信じたいのですが』大賀幸一牧師

列王記下 6章8-17節 ヨハネによる福音書 9章28-41節

 イエス様の弟子たちが、しょうがいのある人を見て、誰の罪のためにこの人はこんなしょうがいを負っているのでしょうか?と尋ねました。イエス様は、誰かの責任の故にしょうがいを負ったということを否定しました。神様の業がこの人に現れるためだ、と教えられました。そして、こうもおっしゃいました。“私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない。誰も働くことのできない夜が来る。”神様の業とは。神様がその御心によって神様の力が現れることを意味しています。またイエス様は、私ではなく、私たちは神様の御業のために昼の間に働かなければならない、とおっしゃっています。昼間とは、神様が、イエス様を人間世界に遣わしてくださっている間、ということです。夜とは、イエス様がいなくなってしまった時を意味しています。イエス様が、私たちと、おっしゃるのは、イエス様を信じて歩む人々を指していると考えることが出来ます。ただし、私たちに神様の御業が出来ると考えるのではありません。しかし私たちも、人間世界に行われる神様の御業に何らかの形で参加することを許してくださるのです。この出来事の終わりに、イエス様は、見えない者は見えるようなり、見える者は見えないようになる、と教えておられます。ファリサイ派の人々、エルサレムの人々も癒された人の両親も見えなかったのです。イエス様の弟子たちも見えていなかったのです。自分たちは少しは見えている、と思っていたかもしれないのですが、実際には見えていかったのです。誰も神様の御業を見えていなかったのですが、神様の御業が、力が働かなかったのではありません。私たちには見えないけれど、私たち人間の世界に、神様の御業は行われている。私たちの人生に神様の御業は行われているのです。神様は必ず私たちに、神様の御業が現れることを示してくださいます。