詩編 119編137-144節 マタイによる福音書 1章18-25節
中東で戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。しかし、旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは律法をそつなく守っている人のことです。
アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは正しい人だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。このような場合、ヨセフが正しい人であるならば、本来、律法に従ってマリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。しかし、彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことであり、彼は自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは<正しさ>から解かれ、癒されました。ヨセフは眠りからさめると、主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。
主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが私たち一人ひとりにいつも寄り添う救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、神は<義>の神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は救い・愛であるということが明らかになりました。
私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の子を神の愛としてお迎えしたいものです。