創世記 12章1-3節 マルコによる福音書 4章35-41節
宣教師として日本に来て、ゴスペルハウス教会を建てました。珍しい教会、珍しい牧師と言われます。それは、普通の牧師がやらないことをやるから、やらなくてもいいことをやるから、韓国人コミュニティーではなく日本人を愛しているからです。私は、コーヒーを焙煎したり、カフェをしたり、パンを焼いています。アドヴェントには100個以上シュトーレンを焼いて町の人々に配っています。これは、私と町の人々との媒体です。宣教師となった時、私はイエス様に向こう岸に渡るようにと命じられました。向こう岸に渡ることは、安定ではなく、何が起こるか分かりませんが、神様の約束があります。キリスト者は皆与えられた道、置かれた場所で、神の国の実現を求めます。何をしたら良いでしょうか。イエス様の言う、向こう岸に渡る、とは関係性を表しています。私と彼のような3人称的な関係から私とあなたの関係になることです。気になる関係、責任を持つ関係となります。私はカフェをしていますから、商店街の会員で、月会費を4000円納めています。相談を受けることもあり、商店街のために祈ってくださいと言われます。ゴスペルハウス教会を建てた時、隣人からうるさいと苦情を毎週の様に言われました。私は隣人を恐れ、憎みました。そして神様に祈りました。神様は向こう岸に渡れとおっしゃったように聞こえました。毎週の様に隣人のところに挨拶に行き、謝りました。今その隣人はゴスペルハウス教会から響く音を喜んでくれます。お孫さんも教会学校に来ています。私たちの世界には色々な向こう岸があります。家族にも教会にもあります。マルコ5:1からはイエス様たちはゲラサ人の土地へ出かけます。弟子たちは行きたくない土地でした。弟子たちだけが向こう岸に渡ったのではなく、イエス様と一緒に渡るのです。教会の歴史は向こう岸に渡る歴史です。平和を造りだす者は幸いである、とイエス様は命じられました。知らないとせず、逃げ出さずどうどうと、イエス様の進む向こう岸に進んでください。