列王記上19:9-18 ペトロの手紙Ⅰ3:13-22
イエス様はただ1度罪のために苦しまれました。もちろんご自分の罪のために苦しんだのではなく、正しくない者たちを愛するために苦しまれたのです。そうして正しくない者をも神様のもとへ導くためです。第1ペトロ書にはある伝説が書かれています。キリストは、十字架において苦しまれただけでなく、霊なるキリストとしてノアの時代に大洪水で滅びしてしまった人々に宣教したというのです。ノアが箱舟を建造している時代、ノア以外の人々はノアの行動を馬鹿にして笑っていましたが、神様は人々がノアの箱舟を見て、悔い改めて神様の元に帰ってくることを神様は忍耐して待っておられたというのです。しかし結果は誰も帰って来なかったのです。この伝説の検証はできませんが、このような話が伝説として語られているのは、神様の愛と忍耐は、時代を超えて永遠にあることを訴えているのではないでしょうか。あのノアの時代からも、神様はずっと人間たちが悔い改めて神様の元に帰ることを求めていた。そのためにずっと人間たちを忍耐し、愛し続けて来られたのです。神様の愛は、あきらめることなく、確実に人間たちを悔い改めへと導いています。長い年月がかかっても、神様の愛は途切れることなく注がれ、いつか必ず神様の愛が花となり実りとなる時がやって来るからです。ノアの時代から人間たちを愛してこられた神様は、水による洗礼をもって人々を救われました。水による洗礼は肉の汚れを洗い清めるのではなく、神様に正しい良心を願い求めることとあります。聖書協会協同訳では、正しい良心が神に対して行う誓約です、とあります。私たちが正しい良心を持って神様と誓約を結ぶことを許されたのです。私たちのこの猛暑は、やはり、聖霊の火が赤々と私たちに迫り、いっそう私たちに神様の愛の炎の巨大さを思わさせ、ただただ神様の愛の前に私たちは悔い改めて、すべてを信じ、すべてを許していただき、すべてを委ねるべきだと思わせてくださるのです。