2023年6月18日 朝礼拝『<からだ>が主役となる』石川立教師

創世記2:4-8 コリントの信徒への手紙Ⅰ12:12-27

 本来私たちは、<からだ>に接触すれば、相手の反応が手に取って分かるので、その感覚を手掛かりに出方を調節することができました。ところが、コロナ禍、私たちの<からだ>は感染源として人間関係を妨げる厄介者になりました。<からだ>に触れることが難しくなった結果、相手と自分の間に境界を引く意識が高まって心理的にも触れ合いが困難になりました。このようなことが教会でも生じました。

 ところで、障がい者はケアする人の力を使いながら生きていきます。人をさえぎる境界を設けず、人を自分の領域である<からだ>に引き込んだり、自分が相手の領域に出て行ったりします。このような触れ合いに豊かな人間関係が生まれる可能性を見ることができます。

 この障がい者とケアする人との間の<からだ>の関係性を教会も学び直し、コロナによって隙間のあいた人と人との関係を再び活性化させたいものです。もっとも、<からだ>に触れ合うことは現実にはほとんどできないわけですが、要するに、<からだ>を厄介者にしないで、身の周りの境界を取りのけ、心と心の触れ合いに向かって、心身をひらいていくということが求められるのです。

 障がい者とケアする人の<からだ>の触れ合いを模範とするような集会をパウロはキリストの<からだ>と呼びました。パウロは、キリストの<からだ>は一つだが、多くの部分から成り立っていると言います。各部分が違う機能を持ち、得意、不得意があります。各々が結ばれ、補い合い、助け合い、支え合って、その生き生きとした多様な関係をキリストの<からだ>が一つにまとめています。人との補い合いや助け合いが苦手な人たち、現実に教会に集えない人たちさえも含めて、この多様性をすべてキリストはご自分の<からだ>の部分にしてくださっています。

 教会はキリストの<からだ>であるというビジョンをもって、アフター・コロナを神に導かれながら共に歩んでいきたいと思います。