出エジプト記16:9-16 ヨハネによる福音書6:34-40
神様が、マナを降らせ、うずらを飛来させて、パンを食べさせ、肉を食べさせたのは、神の民たちが不満を言ったからです。そして神様は神の民たちの不平不満を否定するのではなく、聞き入れられたのです。その結果、マナが与えられたとされています。神様は、神の民たちの不平不満を聞かれたのです。神様を信じなければ、こんな辛い目には合わなかったのに、という後悔の言葉を、神様は聞かれたのです。今日のヨハネ福音書には、イエス様に救いを求めて集まった人々にイエス様が語りかけています。モーセの時代の人々は、天から降って来たパン、マナを食べたが、皆死んでしまった。では、食べても結果的に死んでしまうパンを食べずに、自分たちを永遠の命へと至らせるパンを食べたらどうか、とイエス様はおっしゃいます。それを聞いた人々は、私たちにそのパンをください、と求めます。するとイエス様は、私だ、と。私が命のパンだ、と話されました。イエス様を信じること、イエス様のもとに集うこと、それがあなたたちを養い、生かし、命が満たされる方法だと教えられたのです。しかし、人々は言います。どうしてそんなことが信じられるだろうか?と。人間の出発点は、神様を信じられない、ということです。神様の御言葉が信じられない、ということです。神様を信じられない人間たちの不満を聞き入れて、マナを降らせてくださるのが神様です。うずらも与えて食べてさせてくださいます。神様は、世界を愛しています。神様は、人間を愛しています。だけど、その神様は私を愛しているだろうか?私を愛してはいないのではないか、と人間は考えてしまうようです。自分が神様に愛されている理由が分からない。私のいったい何を神様は愛されているのだろうか、などと人間は考えてしまいます。しかし心配はいりません。神様が私たちを愛するのに、理由が必要でしょうか。条件が必要でしょうか。神様は私たちを愛している、ただそれだけです。神様の愛する私たちが永遠に生きるものとなるために、イエス様は生まれたのです。