創世記18:1-15 ルカによる福音書3:7-14
アブラハムのところに3人の人々が訪ねて来ました。ここで驚くべきニュースを聞かされます。それは、来年サラは男の子を産んでいる、というものです。12節に、自分は高齢となり、もはや何の希望もない、何の楽しみもない。あるのはお迎えがいつ来るかだけ。夫アブラハムも年を取っておじいさんになっているのに、そんな私たちに今更こどもが生まれるはずがない、とおっしゃっています。サラは、こどもが誕生するとの知らせを聞いて、心の中で笑いました。すると、主はアブラハムにおっしゃいました。どうしてサラは笑ったのか?と。神様は、笑ったサラだけにではなく、アブラハムに、そしてサラに語りかけています。歳を取った私たちにこどもが生まれるはずはない、とどうして笑ったのか、と。サラとアブラハムの旅路は、神様が自分達の旅路を導いてくださっているという確信と喜びに溢れていました。しかし長い旅路の中色々なことがありました。そして神様が約束してくださったことは今も何一つ実現していません。あっという間に歳を取り、もはや私たちには喜びはないとなりました。年を取られ、高齢者となって行く私たちの旅路、人生で、誰もが覚えることではないでしょうか。年をとったこの先に、私たちに希望も喜びもない。しかし果たしてそうなのでしょうか。私たちの人生はよく季節にたとえられます。春、夏、秋、冬と。季節の中で最も美しいのは秋の実りの時ではないでしょうか。しかしなぜか私たちの旅路において人生の秋は収穫の喜びに溢れているのではなく、寂しさに包まれています。それは、そこに神様がおられないからです。神様への信仰が失われ、神様との約束は忘れられているからではないでしょうか。神様は、イエス様を通して私たちを神の子とする。真の平和をもたらすと約束して下さったのです。しかし誰も信じない。当然です。100歳の男と90歳の女にこどもが生まれるはずがないからです。そうして人間世界は神様を信じずに滅びて行ったのでしょうか。1年後、サラはこどもを産みました。主なる神様はおっしゃっています。私は来年の今頃必ずあなたのところに戻って来ます、と。私たちだけでは信じることはできないのです。私たちが信じられるのは、神様が私たちを訪れ、私たちを信じさせてくださるからです。