2022年8月7日 朝礼拝『キリストの弟子という理由で』大賀幸一牧師

民数記11:24-29 マルコによる福音書9:33-41

  イエス様は、一番になりたい者は、すべての人の後になりなさい。すべての人に仕える者になりなさい、と教えられたのです。イエス様の言う通りの人は、イエス様ご自身以外にはおられません。その代わりにイエス様から提案されたのが、一人のこどもが真ん中に導かれて来られます。私の名前のためにこのこどもを受け入れなさい、と教えたのです。イエス様がおられないようになった後の弟子たちにとって、こどもがやって来ても何の意味も力にもならないでしょう。それなのにイエス様は、イエス様のおられなくなった弟子たちのために、教会のために、世界のために、こどもを遣わされるとおっしゃるのです。こどもは、一つの象徴かもしれません。この世界の中で小さくされている存在、価値のない者のように見なされている存在のことを示されているのかもしれません。イエス様亡き後、弟子たちを、神の教会を、そして世界を導く者としてイエス様が遣わされるこども、イエス様を信じる者たちであるかこそ、イエス様はこのことを私たちに教えられました。私たちはイエス様の示されたことを受け留めるべきでしょう。なぜなら、イエス様も一人のこども、赤ちゃんとしてこの世界に来られた方であったからです。この世界の平和と正義のために、一人のこども、赤ちゃんの誕生がどんな意味があり、どんな力になるはずもないと誰もが思うでしょう。しかし、イエス様の誕生以来、ずっとこの世界は導かれて来たし、守られて来たではないでしょうか。もしも一人のこどもが遣わされなかったこの世界はどうなっていたでしょうか。イエス様は、私の名によって遣わされるこどもを受け入れなさい、と教えられています。こどもたちを受け入れましょう。小さくされている者たちを受け入れましょう。価値のない者とされている人を受け入れましょう。それは神様が与えてくださった真の平和の道ではないですか。キリストに連なる人々に一杯の水を捧げましょう。実にわずか一杯ですが、神の国につながる一杯となります。