2022年4月24日 朝礼拝『手と脇腹を見せた』大賀幸一牧師

民数記13:1-2、25-33 ヨハネによる福音書20:19-31

  人間には信じるべき存在が必要なのです。もちろん信じるに足る存在でなければなりません。トマスの姿はまさに私たち人間そのものの姿を現しています。ただトマスは、自分がいない時に何故イエス様は来られたかと訴えているだけです。この様に、人間という者は実に身勝手で、がめつく、強情な生き物でしょうか。私のために、イエス様が来てくださるのなら、イエス様を信じるというのです。だからイエス様は、トマスのために、私たちのために来てくださったのです。神様がイエス様を私たちのために遣わしてくださったから、神様を信じられるのです。今日の弟子たちの姿を見てください。家の戸と閉じて閉じ籠っている姿は、神様を信じられない私たちの姿と同じです。そんな私たちの人生の真ん中に何故かイエス様は現れ、来てくださった。こうやって私たちの人生の真ん中にイエス様が来てくださるから、私たちは神様を信じられるのです。イエス様は、あなたがたに平和があるように、とおっしゃいました。イエス様が私たちの人生の真ん中に現れたのは、平和のため、平安をもたらすためです。ここにも私たちが神様を信じられる、神様を信じたい理由があります。私たちの求める平和、平安が、イエス様と共にあるからです。イエス様は弟子たちのところに来た時に、手と脇腹とを見せられました。2度目に現れた時にも、手と脇腹とをあえて示されました。それは深い傷、釘と槍で刺し貫かれた傷です。この傷が示されているのも、本当に神の子キリストは生きて、私たちのために来てくださったことを示しているのです。そして、傷です。イエス様にはこの傷によって、大きな欠けがあるのです。イエス様は私たちのために大切な命の一部を失ったのです。それはどこに行ったのか。もちろん私たちの命が補われるためです。イエス様の傷は、私たちを信じる者とするため、命を受けるためです。