2022年4月10日 朝礼拝『目を覚まし、祈る』大賀幸一牧師

イザヤ書50:4-7 マルコによる福音書14:32-42

  イエス様の苦しみは、十字架のためです。それは本当は私たちの苦しみです。イエス様の苦しみは、イエス様個人のではなく、人間世界が負わなければならない苦しみなのです。今戦争の中にある人々を世界中が深く苦しんでいるようにイエス様はすべての人間の負わなければならない激痛に深く悩んでくださっているのです。一人イエス様は、この苦しみが過ぎ去るようにと祈られました。先週の夕礼拝、役員立証が行われました。立証してくださった姉妹は、自分がこれまで礼拝や聖書を通して神様の御言葉を聴いて来たつもりだったけれども、何も聴いていなかったのだということに気づかされたと証ししてくださいました。それを聞いていて、私も同じだと思いました。私自身も神様の御言葉を聴こうとして聖書を開きますが、なかなか神様の御言葉が聴こえて来ないのです。何度も祈り、何度も繰り返して、ようやくほんの少しだけ、神様の御言葉、御声が聴こえたような時があります。その時は、本当にうれしいです。本当に神様の御声が聞こえたように思えるからです。イザヤ書50章に「神様は朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる、主なる神様は私の耳を開かれた」とあります。私たちに神様の御言葉が聴こえるのは、神様の働きです。私たちは、繰り返し神様の御言葉を聴かなければなりません。神様が私たちの耳を呼び覚ましてくださるから、神様の御業が私たちに働いてくださるから、私たちに神様の御言葉が聴こえてくる時が必ずあるのです。イエス様が、私たちのために、苦しんで、祈って、命を与えてくださいました。もう一度目を開いて、御言葉を聴いてみましょう。イエス様と共に、平和のために、正義のために、神の国のために祈って行きましょう。