ヨシュア記6:12-19 マタイによる福音書 21:18-32
イエス様の権威はどこから来ているのか?との問いに対してイエス様は逆に問います。あなたがたは洗礼者ヨハネの洗礼はどこから来たと考えますか?それは天から、つまり神様がヨハネを遣わし、ヨハネを通して洗礼を授けようとしたのでしょうか。それともヨハネは神様とは全く関係なく、ヨハネがかってに神様から遣わされたと偽って、人々を惑わしたのか、どちらでしょうか。天からだと言えば、それを知っていたならなぜあなたたちは洗礼者ヨハネを信じて、洗礼を受け、ヨハネに従わなかったのですか、と問われるます。逆にヨハネがかってにやったこととすると、洗礼者ヨハネは預言者であると見なされていましたからそんな発言をすればすぐさま評判はがた落ちです。正しくこれが人間の姿なのです。私たちが選び、求めるのは、神様に対する誠実さではなく、自分の身がどうやったら守られるかの方に重きがあるからです。イエス様は別なお話を始められました。ある人には二人の息子があります。父親は長男にブドウ園に行って葡萄の世話をしてくれと求めますが、長男は拒否しますが、後で考え直します。次男は了解し、父親に約束したのに実際には行かなかったのです。父親の望み通りしたのは誰か?とのイエス様の問いかけです。答えは誰でも分かります。父親である神様は何も難しいことを望んでいません。誰にでも分かることを求めているのです。ところが人間は、分かっているのに父親の望み通りではないのです。ところが長男には、後から考え直す、という不思議な、大事なことが起こっているのです。神様が人間世界に遣わされた洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、人々は神様を思い出したのです。自分たちの命、生活にとって、神様の御声を聞くことが大切であることを思い直したのです。私たちには後から考え直して、神様の求めることに従うことが許されています。最初は従えなかったとしても、後から考え直すことが許されています。イエス様の御言葉を受け入れて、私たちの神様が待っておられる葡萄園に出かけてみましょう。