創世記21:9-21 マタイによる福音書8:5-13
イエス様の前に百人隊長がやって来て懇願しました。百人隊長の僕が中風、脳血管に障害が起こり寝込んでいるというのです。この箇所、聖書協会共同訳では、主よ、私の子が麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいます、と百人隊長は言っています。百人隊長の僕なのかこどもなのか?たぶんこれはこどもだろうと言われています。ルカ7章、ヨハネ4章にも似たような物語があります。マタイでは、百人隊長のこどもが体に麻痺を起こして倒れてしまったのです。大変苦しんでいることが告げられています。これだけでは病状は良く分かりませんが、親としてはこどもの急な病気、苦しんでいる姿に慌てふためき、何とかしてやりたいとイエス様に求めたところでしょう。百人隊長の苦しむこどもの話を聞いたイエス様は自分から進んで百人隊長の家に行くと言い出したのです。ところが百人隊長はこのイエス様の申し出を拒みました。私の家にイエス様を迎える資格がない、と。ユダヤ人たちは外国人と接することを禁じていたからです。百人隊長もそのことを良く知っていましたらから、イエス様に迷惑をかけたくないと、イエス様のお申出を断らざるを得なかったのです。イエス様はそれらを全て承知の上で、百人隊長の家に行こうと申し出られたのです。苦しんでいる百人隊長のこどもはどうなるでしょうか。百人隊長は、イエス様の御言葉を懇願しました。イエス様のみ言葉ならば、我が子はそれに従うでしょう。あなたの語る御言葉は、我が子の命に命じてくださるからです、と御言葉を求めました。イエス様のみ言葉は、ユダヤ人と外国人の間でも、離れている距離であっても、そのみ言葉が伝えられるなら、イエス様の、そして神様の御心を、力を、恵みをもたらしてくださるからです。神様のみ言葉は、人種や民族の壁に妨げられません。宗教の違いをも超えてしまいます。そして生と死の狭間をも越えて行くのです。それが神様のみ言葉ではありませんか。