エゼキエル書36:16-28 マタイによる福音書28:1-10
イエス様のお墓に登場した天使のメッセージの一つは、ガリラヤに行きなさい、ということです。既に26:32で、イエス様自身が、弟子たちは皆つまづくこと、イエス様は復活の後先にガリラヤへ行っている、と語られています。マルコ福音書では、先に行って待っているのではなく、先立ち導いてガリラヤへ行く、とされている点です。たぶんマタイ福音書が証言しているのも同じことだと考えられます。先に行っているから勝手にガリラヤに来なさいではなく、イエス様がガリラヤには先に到着して、用意をしているから、あなたがたもガリラヤに来なさい、ということなのです。何故エルサレムではなくガリラヤなのでしょうか?エルサレムは、イエス様を受け入れず、殺してしまったのです。ガリラヤから一緒にやって来た弟子たちもイエス様を捨てて逃げ出します。イエス様はこれまでのことが失われてしまわないために弟子たちにガリラヤへ行くようにと求めたのではないでしょうか。弟子たちのガリラヤからの歩みが決して完全なものではありませんでした。課題は多く、問題だらけでしたが、イエス様は弟子たちの全てを認め、受け入れてくださったのです。メッセージを聞いた女性の弟子たちは、恐れながらも大いに喜び走り出します。私たちも同じ思いです。イエス様の復活を示され、信じられないという疑いの思いと一緒に、本当にイエス様は復活されたのだという大きな喜びとが一緒にあるのです。そして彼女たちの走り出したその先に、イエス様が待っています。私たちの走り出す方向はどちらでしょう。恐れの方向でしょうか。大きな喜びの方向でしょうか。どちらにも走り出すことができます。私たちをこれまでも、こんなに愛し、導いてくださった神様なのだから、神様に全てを委ねてみようとする道があります。今日も神様に委ねてみましょう。