ゼカリヤ書9:9-10 マタイによる福音書27:32-56
今日は棕梠の主日、イエス様はロバに乗ってエルサレムにやって来ました。平和の王としてのイエス様だからこそロバに乗ってやって来たのです。洗足木曜日、イエス様と弟子たちの最後の晩餐が開かれます。イエス様と弟子たちは、その日の最後に祈りを献げているゲッセマネという場所に出かけ祈っていました。そこにイスカリオテのユダに導かれた祭司長たちの派遣した一団がやって来て、イエス様を逮捕したのです。イエス様はユダヤの大祭司カイアファのもとに連行され、取り調べを受け、最終的には裁判が開かれて有罪、死刑判決が出されます。ローマ帝国が派遣した地方長官ピラトのもとに連行され、死刑執行が要求されました。ピラトは元からイエスの処刑に乗り気ではありません。しかしユダヤ人たちの圧に押されて、やむなくイエス様を十字架刑という極刑にすることを許可したのです。処刑場ゴルゴタで、イエス様は十字架にその体を釘で打ちつけられます。その光景を見つめる者たちは、イエス様を侮辱して言います。十字架から降りて来たらお前を信じてやってもいいぞ、と。ユダヤの祭司長たちも神の子なら自分の力で降りて来い、自分を救え、と。同じく十字架にかけられている者たちでさえもイエス様を罵ったとあります。イエス様の弟子であった者たちはただ無力で無言で見つめるしかありません。大歓声で迎えたイエス様を、人間たちは皆、今日は惨たらしく殺してしてしまうのです。ただ何故か死刑執行人であるローマ軍の百人隊長たちは、この十字架にかけられたイエス様を見て、本当にこの人は神の子だったと証言しています。多くの死刑囚を見守って来たが故に、彼らはこう証言するのです。十字架の上で死なれたイエス様は、私たち人間の身代わりとなった神の子です。永遠に神様は私たちの味方であると、私たちを愛し続けていることをこうして示されたのです。聖書は古くからずっと神様が私たちの味方であり、私たちを見守っていることを伝えています。この神様の応援があるからこそ、私たちは今日を歩いて行けるのです。