エレミヤ書29:4-7 フィリピの信徒への手紙3:7-21
パウロは全てを失うという経験をいたしました。自分が一生懸命行って来たことが、全て無駄であり、意味のないことだと知らされた時、人はどうするでしょうか。絶望の暗闇の中で嘆き続けるでしょうか。自分や世界に対する怒りにあふれるでしょうか。どうしても空白が生じるでしょうがその後パウロは、キリストの真実を求めて行きます。パウロはキリストの故に全てを失った、と言っていますが、実際にはパウロは全てを失っていません。パウロは自分が失ったと思っていたことがらを思い出し、それに苦悩することになるのです。9節にキリストへの信仰による義、とあります。信仰による義というよりキリストの真実による義と言った方が正確だと今日では言われています。何故なら、自分自身の信仰のあるかないかがそこで判断されているからです。しかしここで語られているのは、“キリストの真実”なのです。パウロのような人はいかに神様の掟に忠実であるかが気になって仕方がない人です。でも私たちがどのようにイエス様を信じたかではなく、イエス・キリスト様の真実を知ることが大切であり、それが全てなのです。パウロは何度も、私は完全なものとなっている訳ではない、と言っています。何とかして捕えたい、という願いからです。自分たち自身は未だに神様のなさってくださったことに相応しくないと思っているのです。神様の愛をいつもどこかで疑っているのです。それ故に何とか少しでも神様の求めるところに近づこうとしています。これが間違いです。私たちは既に神様に愛されている。イエス・キリストの真実がはっきりと示されているではありませんか。私たちはいわばこのことを確認するために、礼拝を捧げています。何とかして、とパウロも言っています。何度も繰り返し、私たちは、神様の愛、イエス様の真実をこれでもかというぐらいに示され続けないと、強情な私たちは神様の恵みを受けられないのです。神様は、繰り返し何度も私たちの強情さを嘆きながらも、私たちにつき合ってくださいます。私たちがなすべきことは、後ろを振り返り悔やむのではなく、ただひたすらにイエス様と共に歩み続けることです。