イザヤ書53:2-8 ヨハネによる福音書9:1-3
コロナ禍や水害や酷暑により人間の弱さが露呈しました。人はその原因について、たたりではないか、信仰が足らないのではないか等と非科学的な詮索を始めます。人生の意味に係わる根源的な事柄については、人は科学的な説明によって頭で理解することに満足できず、腑に落ちるという形で納得したいと欲しているからです。
ヨハネ福音書9章で、生まれつき目の見えない人と出会ったとき、イエスの弟子たちは、人が生まれつき病や弱さを持っているのは、その人か先祖が罪を犯したからだと考えていました。しかし、イエスは、この人の目が見えないのは、人が罪を犯したからではなく、神の業がこの人に現れるためであると言い切られます。
人間である以上、病や弱さから逃れることはできません。人は、病や弱さを嫌い、恥じ、これらを克服し、征服しようとします。これは当然のことです。しかしながら、病や弱さは、克服され、征服されるだけのものではありません。それらは神様の恵みが現れる場所です。私たちが神様に近づくきっかけにもなります。
ヨハネ福音書9章4節以降には、イエスが目の見えない人を癒す場面が記されています。目が治ることは、とりわけ当人にとっては最重要のことですが、それよりも大事なことは「神の業がこの人に現れるため」というイエスの言葉の愛の力です。もう一つ大事なことは、たとえ肉の目には何も見えなくても、病や弱さに神の恵みを見出す私たちの心の目が開かれることです。
イザヤ書の預言のとおり、イエスは、すべてを克服した英雄としてではなく、ほふり場に引かれていく小羊のように、人々から無視され、むちうたれ、いばらの冠をかぶせられ、みじめに死んでいかれました。弱々しい無残な姿によって、神の愛を示されました。病や弱さは、神の恵みを受ける器、神の愛が現れる場所です。
病や弱さは、できるかぎり克服すべきものでしょう。しかし、他方で、病や弱さは神の恵みが現れる器、神の愛を受ける場所であるということを、はっきり見ることのできる心の目を私たちは持っていなければなりません。