イザヤ書63:1-9、コロサイ2:8-15
1)キリストの勝利の列にさらしものと
コロサイ書2章15節、さらしものにした、という言葉が出ています。戦争で勝利した国は、捕虜となった民族の人々を引き連れて凱旋し、勝利を祝う人々の前に、この捕虜たちの姿をさらして、いっそうその勝利を喜び、祝ったそうです。このキリストの勝利の列とは、私たちのイエス様が大観衆の前を勝利者として進み、勝利者であるイエス様の捕虜となった者たちがその後をぞろぞろと進んで行く姿なのです。捕虜と言いましても、勝利者であるイエス様の後に従う者たちは、イエス様を信じて、イエス様と共に歩み、イエス様のもの、イエス様に属する者として、イエス様を愛して、その後に従っているのです。イエス様の捕虜となったことを光栄に思い、喜びにあふれて、自ら進んでイエス様の後を歩いているのです。天国へ迎えられた兄弟姉妹たちの姿は、正しく、イエス様を先頭に進み、人々に迎えられて、その勝利の列に並び、さらし者になっているのです。さらされていることを、神様の祝福と喜んで、この列につながっているのです。
2)キリストと共に
コロサイ書には、“キリストと共に”という言葉が何度も繰り返されています。12節、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられ、13節、神はキリストと共に生かしてくださった、などとあります。何故、キリストと共に、なのでしょう。実際には、イエス様が十字架にかけられた時、私たちはそこにいませんでした。復活された時もです。しかし、イエス様の十字架と復活は、元からその目的で、その計画に従ってなされていたからです。神の子、神のキリストの十字架、そして復活は、一人の人間イエスの死と復活だけではないのです。キリストが十字架につけられる必要がないように、復活する必要もありません。では何のために、私たちのためではありませんか。私たちが、イエス様と共に死んで、葬られるためです。私たちが、イエス様によって復活させられるためです。私たちがイエス様と共に生きるためです。神様とイエス様が、力のない、何も分からない、無知の中にある、負債がいっぱいの、罪から抜け出せない私たちのために、私たちを助けて、導いて、私たちを引き上げてくださり、命を与えてくださるためではありませんか。だから、共に、イエス様と共に、なのです。神様は私たちの罪を赦し、借金の証書を破り捨て、十字架に釘付けしたのです。それは、私たちがキリスト共に生きて、さらし者になるためです。