出エジプト23:10-13、ルカ14:1-6
1)安息日
今日も安息日のお話です。イエス様は、ファリサイ派のユダヤ人たちに招かれたのでしょう。食事のためにその人の家に入りました。ところがこれは罠だったのです。イエス様を招いたファリサイ派のユダヤ人は、イエス様を訴える口実を探し出すために、イエス様を招いたのです。その罠とは、イエス様の前に座っていた水腫を患っている人です。水腫とは、体の一部に水が溜まって抜けない病気です。さて、イエス様は、自分に掛けられている罠を知り、イエス様から安息日に関して人々に質問されました。安息日に病気を治すことは神様の律法で許されているか?と。安息日の病気治療が律法に反しているかどうかは、明確ではありません。律法学者たちの見解も、全面的に禁止から緊急の場合には許されるまで多様な見解があります。しかしこれは神の律法において、安息日に何が許されるかを人間が解釈した結果です。神様が禁じたのではありません。
2)安息日に働いてはならない
出エジプト記20:9
十戒の第4戒、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間は働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目にはあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」新共同訳聖書は、何であれあなたの仕事を、とあります。しかし、これは誤解を生んで来ました。どんな仕事でもいいからの様に間違われて来たのです。聖書協会共同訳は、あなたのすべての仕事をしないさ、と訳されています。新改訳も英語訳もそして口語訳そうなのです。あなたのすべての仕事、つまり一生懸命あなたの仕事をしなさい、という意味です。7日目、出エジプト記では、創造者なる神様が全ての創造を完成されたことを祝い7日目は休まれました。それ故に7日目は、働いてはならないとされています。神様の創造を喜び、祝い、感謝するのが安息日なのです。ところが安息日、神の民たちにもちゃんと守られてこなかったのです。つい人々は自分の仕事をしてします。神様への感謝や喜びを失い、神様への礼拝を省略してしまいます。故に神の民たちは、強制的にしてはならないことを定めたのです。そうして安息日に何をすべきかが失われて行ったのです。
3)自分のこども、牛が落ちたなら
イエス様は、人々の真ん前で、水腫の人を癒され、帰されました。そして言われたのです。安息日に自分たちのこどもが井戸に落ちて怪我をし、死にかけているなら、あなたたちは安息日に禁じられていることだからと、こどもを引き上げ、助けない人がいるのか?と。助けない人はいないのです。自分自身の大切なこどもたち、大切な財産が危険にさらされているなら、安息日でも人は助けるのです。自分の大切な何かでないなら、勝手なことをいうのです。しかし、神様の御言葉をわたしたちはしっかりと、正しく知るべきです。神様が私たちに命じているのは何でしょうか。安息日にすべきことはなんでしょうか。それは、神様を愛すること、感謝すること、賛美すること、そうして神様は私たちに大切な休みを、6日間とは分けられた大事な1日を私たちに与えてくださいました。それが私たちの命に必要な日だから、この安息日は私たちに与えられているのです。安息日を覚えて、聖なるものといたしましょう。