サムエル記上24:8-18、ルカ7:36-50
1)愛することも少ない者
愛することの少ない者の代表が、イエス様に是非食事を一緒にしましょうと誘ったファリサイ派ユダヤ人シモンです。多くを愛した代表が、この町の一人の罪深い女性です。イエス様は私たちにどのようであれと教えているのでしょう。それは、多くを愛する者になれと教えているのです。多くを愛する者になるということは、どういうことでしょうか。それは、多くを赦されるという事です。多くを赦されたから、多くを愛するものとなるからです。やはりこの町のこの一人の女性は相当罪深い女性なのでしょうか。一人の女性の罪とはどんな事でしょう。ファリサイ派のシモンは言っています。この女性が罪人だ、と。彼女がどんな罪を犯したのか、私たちには不明です。しかし、私たちは、彼女とファリサイ派のシモンや他の町の人々を比べても、特別彼女だけが何か悪いことをしていたとは思いません。ただこの町の人々が、彼女だけに特別な重荷を負わせていただけです。人間の社会にはこうしたことが良く行われて来ました。人間社会の最も悪い部分です。実際には彼女が特別に罪深いわけではありません。シモンとも他の人々とも何ら変わらないのです。では罪深いとされた女性が多くを愛するようになったことと、シモンが少ししか愛さないことの違いはどこにあるでしょう。それは多くを赦されたか、少しだけ赦されたかの違いなのです。もちろん神様が私たちを赦されるのです。私たちの負債を帳消しにしてくださっていると言った方が分かりやすいでしょう。神様は私たちが神様と共に多くを愛する者になって欲しいと求めています。それは、私たちが多くを赦される道でもあるのです。
2)あなたに言いたいことがある
ところが、罪深いとされた女性が神様に多くを赦されたことを認めない者があるのです。神様ではなく人間です。神様が許しても人間が許さないということが起こるのです。この問題を解決しない限り私たち人間に平和はあり得ないのです。シモンはこの女性が罪深い女性だからと言って触れることも触れられることも拒絶しています。しかしイエス様は何にも拒絶していません。この女性のなされることをそのままに受け、喜んでくださっているようです。シモンは、この罪深いとされた女性を愛することが出来るでしょうか。愛するならば、シモンは多くを赦されることとなります。少ししか愛せない私たち、イエス様のように、この女性のように多くを愛するものとなるためには、多くを許されることにあるのです。
仏教での悟り、救いとは、自分自身の中にある仏性に目覚めること、気づくことです。自分たちの中に仏性があるからです。イエス様を信じる者たちは、私たちの中にある何かを求めるのではなく、全ては神様に、イエス様にあります。だから神様を信じることが私たちの命、私たちの救いです。神様を信じて、全てを委ねることが私たちの求めるべきところです。全ては神様にあると言っても私たちが何しないというのではありません。私たちはイエス様が愛し、赦された人々を一緒に愛するという大切な業が残されています。イエス様が愛された人々を、私たちも愛しましょう。