2019年5月26日特別伝道礼拝 『子どもたちよ、良心をいだけ!』山下智子教師

ダニエル書6:10-23、ルカ7:1-10

 私は昨年度一年間、『信徒の友』で、「明治女性たちの信仰 湯浅初の生涯を巡って」という連載をさせていただいておりました。本日は、皆さんとご一緒にこの湯浅初という女性の生涯から、わたしたちがよりよく生きるヒントを見出していきたいと願っています。初がキリスト教の感化を深く受け初めて教会に通ったのは、1876年に開校した草創期の同志社女学校で学んでいた時のことです。在学したのは1878年~1879年頃とあまり長くはありませんが、ここで次第にキリストを信じる生き方へと導かれていきました。当時初の弟である徳富蘇峰と蘆花も男子の同志社英学校で学んでおりました。徳富蘆花が1878年に、10歳という幼さで入学しました。そのため初は勉強の為だけでなく弟二人の保護者役・主婦役もかねて京都にやってきました。初18歳の時です。初は「男だって女だって人間の道理は同じだ」と鼻息荒く勉強に励み、当時京都の町では「女学校の女生徒は英学校の男子生徒の頭の上を歩いている」とうわさされたそうです。そんな初にとってキリストの前に男女はなく、すべての人が尊いというキリスト教の考えは大いに納得のいくものだったことでしょう。さてそれまで自分を犠牲にしても家族の都合を優先していた初が、大きな決意をもって熊本の実家から東京に向かったのは23歳の時です。東京にあったキリスト教主義の桜井女学校、のちの女子学院ですが、そこで校長となっていた叔母の矢嶋楫子を頼り上京したのです。実はこの頃、初は後に総理大臣となる犬養毅とお見合いをしています。お見合いの席で初は犬養毅におもむろに「あなたは政治家ですが、一夫一婦制はどうですか」と質問しました。犬養が正直といえば正直ですが、「他日志を得たら女の一人や二人作らんとも限らない。一夫一婦制など、そんな約束は出来ぬ」と答えたので、初は「それではお断りします」と怒って席をたち帰って来てしまったというのです。初はその後1885年25歳で結婚をします。夫として選んだのは10歳も年上で先妻に先立たれて4人の子どもを抱え困っていた湯浅治郎という男性でした。湯浅治郎は群馬県安中教会の中心メンバーで、新島襄から洗礼をうけクリスチャンとなった人です。当時群馬県会の議長として全国に先駆け、廃娼運動に取り組んでいました。初のこうした目覚ましい社会的活躍は1885年に結婚してから1890年の5年間ほどに集中します。日本の女性史関連の本には、必ず輝かしい歴史として、女性の手による初めての請願運動である一夫一婦の建白が、湯浅初の名前と伴に載っています。1890年に新島襄が亡くなった後、精神的にも経済的にも窮地に陥った同志社を支えるため、初は家族と共に京都に引っ越しました。縁の下の力持ちとして、全く目立たず、顧みられない、だけれども大切な役割を自分自身の生き方として選んだ初やその夫のような人たちが確かにいたのです。初の生き方を見たときに、そのキーワードとなるのは「良心」という事かと思います。「良心」というのは新島襄の思想を表す一番のキーワードですが、同女で学んだ期間こそ短くても、初はその精神を確かに自分の心に刻み、クリスチャンとして神の前に正しく生きる生き方を磨いていったのだと思います。「神の愛する子どもたちよ、良心をいだけ」、私たちも今それぞれが置かれた状況の中でで、良心ある生き方を選び取っていければと願います。