民数記9:15-23、ルカ福音書4:16-30
1)立証
1月役員会で、立証について話し合いました。わたしたちには毎日神様との出会いがあるのではないか、神様はわたしたちに毎日語りかけてくださっているのではないか、これが立証の原点です。しかし私たちはそれを失ってもいるのです。
2)ナザレに帰る
イエス様は故郷ナザレに行かれました。安息日でしたので、いつも通りシナゴーグと呼ばれる会堂に行き、神様を礼拝しました。ユダヤの礼拝では、聖書朗読が大事なことです。イエス様が立ち上げり聖書を朗読しました。与えられた聖書箇所はイザヤ書61章1~2節です。そしてイエス様は全ての人々の注目を浴びながら、この御言葉があなたたちが耳にした時、実現したと語られました。故郷ナザレの人々は、イエス様から次々に語られる恵みのみ言葉を聞いて、大いに驚き、喜びました。そしてすぐナザレの人々はイエス様を憎み、殺そうとまでいたします。
3)医者よ、自分自身を治せ
この男は大工ヨセフの子だ、いったどこでこの知識を得たのか?カファルナウムの町では、大勢の病人が癒されるという奇跡がイエスによってなされたといううらしい。ナザレでも是非その軌跡を見せて欲しいものだ、と。これはもちろんイエス様を信じているのでも、認めているのでもありません。その点をイエス様はナザレの人々に指摘しました。預言者は故郷では歓迎されないもの、として、預言者エリヤ、エリシャの時、神様はイスラエルにではなく、外国人に預言者を遣わし、恵みを与えました。これを聞いたナザレの人々は大いに怒り、イエス様を殺害しようとしたのです。ところがイエス様は人々の憎しみの中、その真ん中を通って行かれます。まるでイエス様が十字架への道を行くのと同じなのです。
ここでイエス様が示されたのは、神様が遣わされることなくして、預言者はその恵みを示すことはないのです。自分たちの勝手な都合で神様の恵みを受けようとしても出来ないのです。先ほど立証の話しをいたしました。立証は神様を信じる信仰からなされるものですが、神様を信じていない人には神様への立証がない、とは言えないのです。又立証としながらも何かの報告になっているという場合もあります。十分ではない場合もあるかもしれませんが、神様が私たちと出会ってくださったこと、神様が私たちになさってくださったことを覚える、感謝することが立証であるなら、何かの報告もあながち的外れではないと言えるでしょう。但し、ここで考えたいのは、私たちに出合ったのは本当に神様だったのか、ということです。私たちはどうやってそれを確かめるのか?基本的に神様がなさったのかどうかを確かめることは人間にはできません。それ故に立証とは、信仰者たちが勝手に神様がなさったことだと言っているだけではないか?と言われているのです。人間が勝手に神様がなさったことと証明できないのならば、唯一証明できるのは、他ならぬ神様ご自身です。神様には証明できるのです。そして証明しておられるのです。
4)実現した
わたしたち神様を信じる者たちは、神様に委ねることを私たちの信仰の道として教えらえています。それは、私たちが心から神様を信頼しているからです。そして神様に委ねるというのは、私たちが思考を停止してしまう事でもありません。自分たちが選択することを放棄してしまう事でもありません。私たちはこれからも神様を信じて、一生懸命考え、悩み、選びます。しかし先ず神様が私たちを導いてくださるから、神様を信じて歩んで行けるのです。