2019年1月13日 朝礼拝 『主よ、離れてください』大賀幸一牧師

出エ18:13-27、ルカ福音書5:1-11

1)神の言葉を聞こうと 
 ガリラヤ湖畔、人々はイエス様の周りに押し寄せて来ました。その目的は、ただイエス様から神様の御言葉を聞くことです。人々がイエス様に求めることは色々あります。多いのは病気の癒し、そして祝福してもらうことです。ルカ福音書は、人々が求めるのはそれだけではないことを証言しています。イエス様から御言葉を聞くこと、人々も求めるところです。

2)お言葉ですから 
 イエス様が神様の御言葉を話し終わると、イエス様から一つの提案がなされます。沖の深い所へ漕ぎ出し、網を入れて見なさい、というものです。プロの漁師であるペトロからすると、随分と厚かましいことを言う人だと思われたことでしょう。ここでペトロがお言葉ですからやってみましょうか、と思ったのは何故でしょうか。それは、神様の御言葉なのです。イエス様はペトロの舟を借りて、湖上から神様の御言葉を語りました。ペトロも大勢の人々と共に共にイエス様の語られる御言葉を聞いていたのです。ペトロは自分から望んでイエス様の語る御言葉を聞いたのではありません。しかし、イエス様の語られるみ言葉は、いつの間にかペトロの心に何かを残しませんでしょうか。ペトロが、イエス様の提案に従ったのは、イエス様から神様の御言葉を聞いたからです。神様の御言葉は、ペトロに語りかけ、ペトロの魂に届き、ペトロを動かしたのです。神様の御言葉が語られるところで、同じようなことが起こります。神様の御言葉が聞かれるところで、神様の与える恵みが開かれるからです。

3)私から離れてください 
 ペトロは急に恐ろしくなったのでしょうか。イエス様の足元にひれ伏して、私から離れてください、と言っています。これはおかしな話です。本当に自分が罪人であり、イエス様の側にいることが相応しくないと思うのなら、ペトロから離れ去るでしょう。ヨハネ福音書21章で、復活されたイエス様と出会ったペトロは、イエス様を認めて、ペトロは舟の上、イエス様は湖岸と随分と離れているのに、ペトロは自ら湖に飛び込んでいます。ペトロは恥ずかしかったのです。あんなに死んでもあなたから離れませんとまで言った自分が恥ずかしくて、自分をイエス様から隠さなければならなかったのです。ペトロは、イエス様を裏切ったことを自覚しているからです。イエス様とペトロとの最初の出会いは違います。ペトロは、自分から離れてください、私はあなたの側にいられるようなものではなく、神様の教えにも従わない罪ある者なのです、と自分を語っている通りです。でも、ペトロはイエス様から離れません。離れられないのです。今自分の目の前で起こった出来事への驚き。説明のつかない事柄。この驚きは、恐怖ではありません。不思議としか言えない、そしてこの驚きが、自分はイエス様には相応しくない者であると分かっているが、イエス様から目を離せられない、離れることが出来ないのです。ペトロたちは、イエス様の弟子となるのです。弟子となるという事は、お師匠さんから大事なものを受け継ぐ者となるという事です。大事なものを受け継ぐために先生から学ぶのです。私たちも大事なものを受け継ぐために、イエス様から学ぶのです。私たちもそれぞれイエス様が教え、与えてくださる大切な事柄を受け継ぐ者です。弟子たちは全てを捨てて従いました。全てを捨てても、信じられるからです。全てを委ねることは大変ですが、全てを捨てても信じられる方との出会いは他にはありません。主イエス様と共に行きましょう。