ダニエル3:13-26、使徒言行録5:27-42
1)潜伏キリシタン
教会レクレーションで、京都で多くのキリシタンがその信仰の故に迫害、殺害されたことを学びました。棄教するか、死ぬかしか選択肢のない惨いものでした。キリシタンたちの多くは棄教ではなく、死を選びました。その信仰の力はどこから来るのか?私達よりも強い神様への信仰、覚悟を持っていた事は間違いないでしょう。当時のキリシタンたちは、村や集落単位、家族ぐるみで信仰者であったことは大事だとされます。信仰共同体ははるかに強い力で支え合い、守られていたからです。一人では戦えない、耐えられないことも、家族全員、みんなと共に神様を信じ、戦って行けました。又私達よりもはるかに強い天国への思いがあります。棄教した者は天国に入れない、という強い信仰がキリシタンたちにはありました。神様に愛され、赦され、永遠の命を与えられています。だからこそ神様の愛に背くことは決して出来ないのだという信仰がありました。たぶん私たちの時代より、地上の命は短く、失われることも日常に存在していたという事もあるでしょう。神様への信仰は、命と強く、深く結びついているからです。ダニエル書を読んでいただきましたが、バビロニアのネブカドネザル王は、その権力を示すために自らの偶像を作って人々に崇拝させました。神様を信じる者たちは、王様の前でもはっきりと証言しています。神様は必ず私たちを救ってくださいます。そうでなくても、私たちは偶像を崇めることはしません。そして彼らは激しく燃える炉の中に投げ入れられたのです。キリスト教禁教が終わった後、潜伏キリシタンたちは3つに分かれたと伺いました。仏教に帰依した人々、カトリック教会に戻った人々、そしてカトリック教会を信頼できないとして潜伏キリシタンのままであった人々。先年遠藤周作の『沈黙』が再映画化されました。そこには棄教した宣教師が描かれていました。そして何度も繰り返し棄教と許しを求めるキチジロウです。宣教師は、キリシタンたちを助けるために棄教する道を選びます。棄教した宣教師は仏教徒として葬られますが、彼らの信仰は果たして奪うことが出来たのでしょうか。そしてキチジロウ。簡単に棄教し、何度も赦しを求めにやって来る人間です。果たして神様は棄教した人間を赦されないのでしょうか。宣教師が踏絵を踏む時に聴いたキリストの声、踏みなさい、人間の弱さのために私は生まれた、というこの遠藤の描いたキリストも真実ではないでしょうか。使徒言行録は、人々が木にかけて殺したイエス様を神様は復活させ、イスラエルを悔い改めさせ、罪を赦すためにこの方を導き手、救い主とし、神様の右に上げられたと記されている通りです。
2)神から出たなら
使徒たちは逮捕され、イエス様と同じ様に、ユダヤ人議会で裁判を受けています。そこでファリサイ派のラビ、ガマリエルが語ったことは深い意味を持っています。ガリラヤのユダなるものが人々を先導して反乱を起こしたが、彼らは捕らえられ殺され、従った人々も散り散りになった。ナザレのイエスが逮捕され、十字架にかけられて殺されました。皆さん、これが人間から出たことなら滅びて行きます。しかし神様から出たのなら、わたしたちには滅ぼすことは出来ないのです。私たちはそれが神様から出たのか、人間から出たのか見分けることが出来ません。結果が全てを証明してくれるでしょう。わたしたちは、人間に従うのではなく、神様に従う事を選びます。私達は、神様から出たものに導かれ、養われます。これからも神様からでたものを求めて行きます。