ネヘミヤ12:45、ヨハネ福音書15:1-11
ヨハネによる福音書を書いたヨハネは、イエス様の時代から60~70年後の人物です。この時代にはイエス様がどんなお方で、どんなものを与えようとしてくださっていたのか。その信者の理解が衰退していたと思われます。ヨハネは教会の人たちに今一度、イエス・キリストというお方を訴えています。これは今日の私たちに対しても強く訴えられていることです。
(1)聖書には「時」という言葉が二つあります。これは新約聖書では「カイロス」という言葉です。私たちが使う「時」という言葉は「クロノス(time)」です。この「時」が私たちのイエス様への信仰というものを蝕んでいきます。人間の時というものが、神様の恩寵を浸食していきます。それによってキリストの恩寵との繫がりが希薄になっていることを、ヨハネは現わしています。
(2)「私は○○である」は「エゴーエイミー○○」という形式文です。神様が「私はあるという者だ」とモーセに答えましのもこの形式文です。ヨハネはキリストを現わすために神様の言葉を使いました。「あなた方は枝である」の「枝」という言葉は「引き裂く」という動詞から生まれました。キリストに繋がるということは、人の世のあらゆる生き方から引き裂かれるということです。私たちは人間の時によって縛られていますが、それから引き裂かれずにキリストに繋がるということはありえません。そういう意味が「枝」という言葉には秘められています。そして「つながる」という言葉は英語の前置詞「in」であり、ギリシア語では「エン」と言います。しかしヨハネは「エン」に「メノー」を重ねて使っています。これは強調体です。ヨハネはキリストとの繫がりを強調する必要がありました。教会の人々とキリストの繋がりが希薄であったからです。ヨハネは15章でそれを伝えようとしています。その中心的な繫がりはキリストの言葉に繋がっているということです。このことをヨハネは私たちに語ろうとしています。
(3)コロ3章16節の「宿る(エイケオー)」は「(人の心)の中に宿って彼を動かす」という意味です。キリストの言葉が本当に教会と、牧師と信徒を動かしているのかどうか。それに動かされていない教会や牧師というものは意味がないのです。言葉が内に宿るということの持っている革新的、恩寵的な力を、ヨハネとコロサイ書を書いた作者は、私たちに強く訴えています。
そしてキリストに繋がり、キリストの言葉が私たちの内に宿るならば、最後に到達ものは喜びです。私たちの中にキリストによって与えられた喜びがなければ、教会の意味がありません。教会を通して私たちにイエス様によって与えられる喜びが届いているのかどうか。それがなかったらキリストの恩寵に繋がっていないのです。だから教会の創立記念礼拝は、この原点に立ち返らなければなりません。キリストの喜びということがない限り、教会の存続は全く意味がありません。キリストの恩寵からいただいた自分の生き方、考え方の革新、もっと強くいうならば革命です。キリストの恩寵による革命が私たちにないならば、それらはなんの意味もないのです。教会がキリストの恩寵に生かされていることを、ヨハネによって学ばせていただきました。キリストの言葉があなた方にいつもあるならば、恩寵に結びついているならば、豊かなものが与えられていくのです。