列王記上21:1‐16、ガラテヤ1:1‐10
1)この悪い世から救い出す
キリスト教では、“救い”ということを言います。いったい何から救われているのでしょうか。パウロの記したガラテヤの手紙の中、4節「この悪い世から私たちを救い出そうとして」、とあります。聖書は私たちの世界が元々神様に愛され、創造された世界であるとします。人間も愛されてこの世界に命を与えられています。しかしいつしかこの世界は神様から離れてしまったのです。本来の神様の愛した世界ではなく、どこかがゆがんでいる、壊れているのです。私達はそんな世界に生まれ、生きているのです。私たちの生きている世界では曲がったこと、神様の御心に適わないことも起こっています。列王記のアハブ王の物語なども典型的な権力者の利己的な欲望を満たすためにいかに善良な人たちが苦しめられ、殺されているかを示しています。この様な世界に生きる人たちを救う道があります。先ず1つは、この世界を離れること、捨てることです。この世界には真実が無いのですから、救いはこの世界の中にはあらず、この世界の外、真実なる世界に求めようとすることです。仏教が教える救いの道です。この世界に執着せず、仏様になる道、そのためには宇宙の真理を知ることや真実なる慈悲を頼りとしこの世界から離れることに救いを求めるのです。しかし私たちは別の道を知っています。福音の道です。イエス様が私達にもたらしてくださった福音による救いです。それはこの世界を捨てる道ではありません。神様が遣わされたイエス様によって救われる道です。神様は、イエス様を通して、私たちを全て赦し、私たちを全く受け入れ、私たちを愛してくださいます。神様は御自分から生まれた世界が、神様に背くようになったからと言って、この世界を破壊してしまえば全てが済むとはなさいませんでした。神様に背く者を救うために、神様はイエス様を遣わしてくださったのです。ただ神様の愛だけが、わたしたちの救いの源です。あのアハブ王でさえ求めたのは何であったでしょうか。それは神様の慈悲です。
2)他の福音に乗り換える
パウロは、ガラテヤ地方の教会の人々にあきれ果てた、と言っています。こんなにも早く他の福音に乗り換えようとしているからです。もちろんもう一つ別な福音がある訳ではありません。福音とは、イエス様の福音以外ありません。御自分の流した血によって打ち立てた神様の愛を示す福音です。ガラテヤ地方の人々はパウロからイエス様の福音を聞いて、大変喜びました。しかし今は迷っています。もう救いが必要ないというのではなく、救いを求めているのです。パウロがイエス様の福音の恵みに与るために要求したのは、信じることです。ですが信じる、ということは時に不安定です。信じることへの不安から人々はより確かな福音の恵みに与る資格を必要とします。しかしどんな人間ならばイエス様の命に匹敵する資格を持つ人間があるでしょう。全ては神様から来るのです。神様がその深い慈悲から、只無償で与えてくださるのです。わたしたちに求められるのは、ただ信じるだけです。疑わず、感謝して、喜んで神様のこの深い慈悲を信じるだけです。わたしたちに何も無くてもいい。神様が愛してくださっています。神様はこの世界を、滅ぼすことなく、傷つけることなく、大切にしてくださいます。どんなに時間がかかっても、世界が神様に帰るまで、深い慈悲で導いてくださいます。