ホセア書11:1-9、1コリ12:27-13:13
1)ふるさとは遠きにありて思うもの
室生犀星の詩、「小景異情」の有名な一節です。遠い故郷を思って作られた詩とされていた時期もあるようですが実際には室生が志を持って東京に出たものの中々思うような活動が出来ず、やむなく故郷金沢に帰って読んだ詩となっています。そこには故郷はただ遠くから思えば良いものであって、決して帰るべき場所ではないとしています。この歌は故郷を懐かしむ歌ではなく、故郷を呪った歌なのだと言う人もあります。「そのこころもて、遠き都にかへらばや」。遠い都に帰らねば、行かねばならない、と。葬儀に読ませていただくのが『ヘブライ人への手紙』11章。人は地上の旅人である。人は自ら出て来た故郷に帰る機会があったであろうが、人はその故郷ではなく、天にある故郷を目指して帰って行った、とあります。神様は喜んで旅人を迎え入れてくれます。
2)ホセア書
預言者ホセア。北イスラエル王国の最後の繁栄の時代からその滅亡の時を歩き続けた預言者です。ホセアが預言者として召命されたのは、ホセアの結婚の破たんが関係していると言われています。愛しても心通じない夫婦の関係。それは正に神様と人間、神様と神の民の間でした。ホセアの預言には、神様ご自身が幼きイスラエル私は愛した、と明確に記されています。神様ご自身が神の民を教え養い、癒して行かれます。しかし神の民、人間たちは全くその事を気づくこともありません。それでも神様は、人間たちを愛します。神様の人間たちへの愛し方は、直接ではありません。神様の愛は、人間の綱、絆を持って導きます。ですから人間には神様が働いているとは分かりません。働いているのは人間の誰かです。しかし神様は人間を動かして、その人間の綱、絆を持って人間に関わり続けます。神の民が神様に背いた時も、神様の心は台風の様に激しく荒々しいでしょう。しかし、御前を見捨てることができるものか、と。私は神であって、人ではない、と神様はおっしゃられています。
3)私たちはキリストの体、その肢体
パウロは教会に関して、コリント書にこのように書いています。パウロは、第1は使徒、第2には預言者第3はと言っていますが、これは序列をつけたものではありません。ただ神様が招いた恵みに従って第1はと呼んでいるだけです。そして誰もが神様に招かれています。しかし人は弱く貧しいものです。私もそうですが、私にも病に苦しむ人を癒す特別な賜物を神様がくださっていればと思うことがあります。しかし心の貧しい私などにそのような賜物は大き過ぎて、私はきっと慢心し、自分は何か特別なのだと勘違いを起こしてしまうでしょう。ただ神様の愛が示され、ただ神様の栄光が示されるためにではなく、自分の栄光を求めるようになってしまいます。ですから私に与えられたのはただ只管に神様の御言葉を求めて、神様を信じて、祈ることです。パウロは神の愛の必要を訴えています。あらゆる知識に通じていても、山を動かす完全な信仰、全てを貧しい人々に献げ、自らの命を犠牲とする行動があっても、そこに愛がないのなら、全てが無意味だと断言しました。私達は未だに神様の愛をおぼろげにしか見ていないし、知らないのです。本当の神様の愛に触れる時を求めています。私達が教会にあるのは、神様の愛があるからです。神様の愛を求めているからです。信仰と希望と愛は、何時までも残こるのです。何時までも残るのです。