エレミヤ書23:23-32、ガラテヤ5:2-11
1)十字架を誇りとする
パウロは、ボクシングやマラソンの話題を出して、最後まで走りぬき、最後まで戦い抜くことの必要を訴えて来ました。もちろんどのスポーツにも持って生まれた才能があり、どんなに努力しても勝利を得るのはとても難しいということがあります。そんな時、人々は今自分たちが持っているものでは足らないと判断することがあります。今自分の持っているものでは勝つことが出来ない、敗北する。勝つためには何かを足さなければならないとする場合があります。ガラテヤの教会でも同じことが起こっています。私たちが既に持っているものでは足らないのではないか。これでは勝てないのではないか。そんな不安が神様を信じる人々の中に生まれて来ました。もちろんそれでは足らないとして人々の不安を煽るものがいたからでもあります。それでは、私たちにとってイエス・キリスト以外に足さなければならない方があるのでしょうか。たとえば私たちはイエス様を見たことがありません。イエス様を信じていますが、イエス様を見たことが無いことが私たちの信仰の確信に影響している場合はあるでしょう。ところが、人間は現に見ているから神様を信じるのではないことは証明されています。イエス様を見ても信じない人がいたことでそれは分かります。信仰は見たからだけではないのです。神様から示されること、神様から与えられた恵み、導きがあってこそです。不思議なことにそれを私たちは受け入れたのです。またイエス様の十字架と復活から随分と時間が経ち、人々の信仰にほころびが出てきている、とも言われます。もちろんそういうこともあるでしょうが、それはイエス・キリスト以上に何かを足す必要があるという事ではありません。人間たちが何かを見失っているからです。このように、私たちはイエス・キリスト以外に、何かが不十分で、何かが足りなくて、何かを足す必要があるとは思えません。私たちは、イエス・キリストの十字架を誇りとすべきです。
2)足し算ではなく引き算
真実に基づいてなされている信仰ならば、私たちに必要なのは足し算ではなく、引き算です。自分たちの足らないところを埋めて行って、どんどん足して行けば、私たちの信仰は満たされる、私たちは永遠の命にいたれるのではありません。逆に私たちが永遠の命に至るには引き算が必要です。無駄なものを引いて行くのです。自分の我欲を捨て、わがままを捨てて行くことです。最後に残されたものがあります。元々神様が与えてくださったものです。裸のままの私たちです。神様が最初から与えてくださった恵みです。全てを捨てて神様を信じること。神様に委ねること、それが信仰です。でもとても簡単ではないので、私たちはこうして神様に呼び集められているのです。なかなか全てを神様に委ねられない、裸になれないからです。
3)近き神、遠くからの神
神様は近くにいる神であるのか、遠くからの神ではないのか、とエレミヤ書にあります。私たちはいつの間に神様でさえ、自分たちの意のままになる所有物であるかのように誤っていることがあります。神様はもちろん私たち愛する私たちの神様です。そして神様は全ての人を愛する偉大なる神様、天地創造の神、全てを審判される神です。でもその神様がわたしたちに命を与え、愛を与え、信仰を与えています。恵みはこの神様から来ているのです。神様から来ている恵みに、私たちは何も足すことはありません。