2018年4月8日 朝礼拝 『指を釘跡に入れてみる』大賀幸一牧師

民数記13章1-2、17-33節   ヨハネ20章19-31節

1)手と脇腹とを見せた 
 イエス・キリストは十字架にかけられて死んでしまいました。3日後、イエス・キリストは復活されました。弟子たちの所に現れたイエス・キリストは、まず手を見せて、脇腹を見せたそうです。何をしようとされたのでしょうか?それは、イエス・キリストの人生を証明しているのです。私たちは皆自分が確かにこの世界に生まれて、生きたという事をどこかに遺したい、と思っているようです。誰からも忘れられ、消えて無くなってしまうようなことにはなりたくないと思っています。家族や友達には知っておいて欲しいと思っているようです。イエス・キリストの場合、手首の釘後、脇腹の槍の跡は、御自分の人生を証明しているのです。イエス・キリストは、御自分の全てを人間を愛するために献げました。人々に理解されなくても、批判されても、全ての人を愛して、御自分の人生を献げられました。十字架は、それを象徴しています。弟子たちに傷跡を見せたのは、自分はこれまであなたたちと一緒に生きてきたイエスそのものだ、何も変わることのないイエスそのものだということを証明するためでした。何故ならイエス・キリストは死んでしまったからです。死んでもイエス・キリストは変わらずに人間を愛している事を証明してくれたのです。

2)トマス 
 ところがどういう訳かその時にちょうどいなかったのが、双子の兄弟の一人トマスという人です。自分がいない時にイエス・キリストは現れた。どうして自分がいない時にと思いました。そして仲間たちに、あなたたちの言っていることは信じられない。釘後に指を入れて確かめてみないと私は信じないと言い出したのです。さて8日後、再びイエス・キリストはみんなの前に現れたそうです。その時はトマスも一緒にいました。ではトマスは、傷跡に指を入れたでしょうか。もうその必要はなかったのです。トマスには、自分がいないのにイエスが現れたことが受け入れられなかったのです。今はイエスが自分のために来てくれたことで、全てが理解できました。トマスは確かめたかったのです。イエスは何故自分のいない時に来られたのか。自分はいなくてもいいのか。もちろんそうではありません。トマスのために、イエスは再び来てくれました。でも釘跡に指を入れる必要はありませんでした。

3)信じること 
 神様は人間に必要でしょうか。宗教や信仰は人間に必要でしょうか。人間はお腹が空くから食事をしますし、食べることで健康を維持し、成長して行きます。でもいつか食べられなくなります。そして死を迎えます。人間には心があります。心もまた食べ物が必要です。お腹がすきます。だから旅行をして美しいものを見たり、素晴らしいものを見たり感じたりして、心の渇きを満たします。人間には心だけでなく、魂があります。決して消えて無くならない誰にもある魂。魂もお腹が空きます。魂の飢え渇きを満たしてくれるのは何でしょう。体の食べ物ではありません。美しいものでもありません。魂を与えた方が養ってくださるものです。それは神様であり、神様の愛であると私たちは考えています。“しょうがい”があって体が不自由であっても、こどもであっても、人間として生まれた以上体も心もそして魂があります。私たちは魂を持った人間として、お互いを大事にして行きたいと思います。そして魂が養われるためには何が必要なのかを大切に生きて行きましょう。