哀歌3章18-33、マルコ10章32-45
1)先頭に立って
いつも私たちは私たちの先を進まれる神様に導かれてこの人生を進んでおります。私たちの前には必ずイエス様がおられます。今日も弟子たちの先頭を進まれるのはイエス様です。間もなくエルサレムに辿り着きます。ところが弟子たちは恐怖を感じています。33~34節に記されている受難予告は3度目。3度目とは、何度も何度もイエス様は受難、イエス様の十字架について弟子たちに詳しく話されているのです。その内容は単なる死ではなく、ユダヤ人たちはイエス様を逮捕し、死刑を宣告し、異邦人に渡され散々、嘲弄して殺すというものです。実にイエス様は具体的に、ご自分の死を示されています。そして3日後の復活も示されました。弟子たちには、このお話は余りにも恐ろしい話で、何度聞いても分からないのです。
2)認知症の医者が認知症
日本で認知症研究の第1人者であった医師が認知症になられたというお話を新聞で読みました。外出する度にドアを施錠したかどうか不安になる。それは当たり前ですが、その確認をしたかどうかを忘れてしまうのは、認知症だそうです。自ら病院で診察を受け、ある種の認知症と診断されました。この医師は、認知症になっても閉じこもらずに、恥ずかしがらずに、ディサービスを利用したり、人々の中に入って行くことが大事だと勧めていました。自分が認知症になって、ディサービスを利用されました。実に職員たちが個々人の状況を理解して対応しているかを改めて確認し、やはり認知症になってもディサービスを利用することはとても大事だと実感されたそうです。第一人者の医師が認知症になったことを公表するのにためらいはなかったのかと聞かれ、自分自身が認知症を体験し、報告することが出来ることを喜んでいると答えています。ただ、どうして自分が認知症になったのでしょうか、との問いには答えられなかったともおっしゃっています。
3)先頭に立って進む
弟子たちが恐れをいだく中、イエス様は先頭に立って進んで行かれます。これには大切な意味が隠されています。イエス様は、弟子団の先頭にあるだけではありません。誰よりも人間たちの先頭に立って、私たちを導いておられます。先を進まれているのではなく、先に立って、私たちを導いているのです。私たちが進まなければならない道、私たちが越えなければならない道へとイエス様は導かれています。実際にそうならないと分からないことも多いですが、それでも備えることは出来ます。イエス様は私たちが備えられる様に準備の時を与え、そして御自分が先立ち、導いてくださっているのです。
4)人の子は仕えるために
そんな中ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネがイエス様に来るべき時、私たちをあなたの右左に座らせてくださいとの願いは、弟子たちの中に大きな波紋を広げました。しかし、イエス様ははっきりと、信じる者たちの間には、互いに仕え合うという関係だけがある、とおっしゃっています。イエス様自身も御自分が仕えるために来たと証しされています。御自分の命を持て仕えるために。私たちのしんがりを守るのは神様です。私たちが皆辿り着くべきところに入るまで私たちを導き、見守っておられる神様です。全ての者が辿り着くのを見届けて、一番最後を進まれるのが神様なのです。私たちは、いつも神様の愛に包まれて、進んでいます。今日も神様と共に歩みましょう。