イザヤ書48章1-8、マルコ8章24-33
1)弟子たちを叱られた
今日のマルコによる福音書、イエス様は愛する弟子たちに、私を何者だと思っているのか?と質問し、ペトロが、あなたはキリスト、メシアです、と立派にお答えになった出来事です。そしてイエス様は弟子たちに最初の受難予告をなさいました。ところがイエス様は、ペトロが素晴らしい応答をしたのに、弟子たちを“叱られて”いるのです。“戒められた”と新共同訳は記していますが、叱られたのです。この後イエス様が最初の受難予告をされた後、ペトロはイエス様を諌めたとありますが、これも叱る、なのです。そして最後にイエス様は弟子たちを見ながら、ペトロを叱っています。3度、叱る、が出て来るのです。イエス様が最初に弟子たちを叱ったのは、何か間違いがあったからではなく、弟子たちはイエス様こそ我らの救い主キリストであるという信仰に至ったからです。イエス様をキリストと信じることは、この後イエス様が明かされたイエス様の受難、十字架の道を受け入れなければならないからです。イエス様の弟子達でさえ、イエス様の十字架の道を理解していたか、と言いますと全く理解できていなかったのです。弟子たちはそれでも知った気になっていました。だからイエス様が突然口にし始めた、受難、十字架への道を耳にして、そんなあほなことがありますか、とペトロはイエス様を捕まえて叱り出したのです。こんな愚かなことはありません。今日の読んでいただいたイザヤ書にも記されています。「お前に聴かせたことはない、見よ、私は知っていたと、お前に言わせないためにだ」とあります。人間たちは、神様のなされることを一部示されることがありますが、全てを知っている訳ではありません。それなのに自分たちは神様のことは何でも知っているように思い違いしていることがあります。神様のなされることは不思議です。愛に溢れています。
2)ペトロを叱る
イエス様が、弟子たちに、ご自分の十字架への道を明らかにされたのは、弟子たちだけにはイエス様の道を受け入れて欲しいと考えての事です。そしてイエス様の受難が、決して何かの間違いで起こったのでも、偶然起こったのでもないことを知らせるためです。神様とイエス様が、私たちを愛して、私たちを救うためにあらかじめ計画され、実行されたことが、イエス様の十字架への道なのです。イエス様は、はっきりとこのことをお話になっています。
3)神の事を思う
その時、イエス様は、ペトロだけを見てではなく、振り返って弟子たちみんなに語りかけられました。イエス様が叱ったのは、このことを決して忘れるな、という強い意味で示されたのです。サタン、引き下がれ、あなたは神様の事を思わず、人間の事、自分の事しか思っていない。私たちは人間ですから、人間の事を思うのは当たり前です。しかし私たちは神様を信じているのです。私たちの世界に起こることは、ただ人間だけの意志で起こっているのではありません。神様が働いてくださっています。神様が私たちの世界に関わっておられます。神様がわしたちの人生に働きかけてくださっています。人ばかりを見ていると私たちの限界はすぐさまやって来ます。そんな私たちは神様をも見ています。神様が私たちに働かれているのを知っています。私たちは神様を見ています。私たちの世界に働かれる神様の御業を見ています。