2018年2月11日 朝礼拝『まだ信じないのか?』大賀幸一牧師

ヨナ1章1-2章1節、マルコ4章35-41章

1)まだ信じないのか 
 今日の出来事は、夕方になってイエス様が突如向こう岸へ行こう、などと言い出したことから始まっています。弟子たちにはガリラヤの漁師たちがいますから、夕方から湖は突然激しい嵐に見舞われることも良く知られている事です。イエス様を乗せた船、他の弟子達を乗せた他の舟も含めて一緒に出発しました。そして予想通り大嵐になってしまったのです。真っ暗闇の中で嵐、船は沈みそうになります。イエス様は船の後部で眠り続けています。誰かが叫んだのでしょう。先生、私たちが滅びても構わないのですか?イエス様はさっと起き上がって風に、湖に、黙れ、静まれ、と大声を上げられた。あっという間に湖は静かになりました。「まだ私の事が信頼できないのか。いつになったら私を信じてくれるのか」と、イエス様はおっしゃるのです。イエス様は、この時一緒に船に乗っていた弟子たちだけに語っているのではありません。間違いなく私たちに語っています。イエス様は、わたしもあなたと一緒にこの船に乗っているのだ。暗闇の中で嵐に出合ったが、わたしが、イエス様が一緒に乗っているのではないか、と。歴史的な肉をもったイエス様が目の前にいてもやはり私たちは怖いのです。だからイエス様は私たちにおっしゃいます。「何故怖がるのか」、と。これは怖がるのがおかしいということではなく、自分たち自身が直面する暗闇、突然の嵐、弟子たちにも予測できた事柄です。予測できるということは、そのために準備することが出来るということです。私たちもこれからの私たちの人生に起こるであろう幾つかの事柄を予測することは出来ます。予測できるなら何か準備をし、学んでおくことが出来ます。それでも実際にことが起こった時、予測したこととは違ったり、予想以上であったりすることがあるものです。イエス様と弟子たちが乗った船が出合った突然の嵐、実際の嵐はやはりどうにもならないほど恐ろしいものです。でも実は弟子たち出発前に思っていたはずです。本当に危険なら、止めましょうと言うべきでした。そう言わなかったのは、イエス様が一緒にいるから、大丈夫と思ったのです。イエス様が一緒におられても、暗闇の嵐は怖くてどうしようもありませんでした。そのはずです私たちはそれぞれ自分たち自身の人生として死を迎えなければなりません。誰かが代わることはできません。誰もが一人で自分の死を迎えなければならないのです。イエス様が一緒に乗っておられても怖いものは怖いです。だからこそ私たちは、必死に、自分たちの死を越えて行くことを、命に辿りつくことを求めています。不安であるならいっそう神様とイエス様に求めることです。イエス様以外に、私たちの生も死も知っている方がどこにおられるのでしょうか。命に辿り着くまで求め続けましょう。

2)預言者ヨナの道を私たちは示されています。
 ヨナは神様に命じられたのに、逃げ出しました。本当に逃げられると思ったでしょうか。でも逃げ出した。だから逃げても良いのです。ただ本当に神様から逃げ出すことは不可能です。そして逃げても、神様は私たちを見捨てません。私たちは神様から離れることは出来ません。最後には必要な道を私たちは進められています。それは神様が予定していた道ではないでしょうか。まだ信じられないのか?決して私たちを叱っているのではなく、私たちの事をよくよく知って、イエス様は心を寄せて、そうおっしゃってくださいます。