2018年1月7日 朝礼拝 『父の家にいるのは当たり前』大賀幸一牧師

ゼカリヤ 8:1-8、ルカ 2:41-52

1)父の家にいるのは当たり前 
 過越しの祭りを祝うために世界中から人々はエルサレムにやって来ます。イエス様の御一家も毎年熱心に過越しの祭りのためにエルサレムにやって来ました。しかし事件が起こります。家族親族一同がナザレに帰ったのに、何故か一人だけエルサレムに留まりました。昨年末の礼拝で、神様の不思議さが人間を救い続けている事を示されました。人間には不思議と思われることが神様の御業で、人間を救って来たのです。少年イエス様の不思議な行動が何か意味を持っていると想像いたします。事件は12歳の少年の行方不明では終わりません。捜索が開始されて3日目、遂に両親は少年をエルサレムの神殿境内で発見します。泣いて母親の胸に飛び込むなら可愛いものですが、12歳のイエス様は、私が父の家にいるのは当たり前ではないか、何故ここにいることをあなた方は知らないのです、と反論されてしまいます。イエス様は最初からずっとここにいる、と訴えているのです。他を捜すのではなく、何故ここを捜さないのかと訴えているのです。しかし、イエス様の言葉は、両親でさえも理解でなかったことが示されています。12歳のイエス様は、私たち人類に対してメッセージを示されています。イエス様を探すべき場所はここである、ずっと神様の家にあることは当たり前の事なのです。わたしたちは、イエス様が生まれたのは、神様が私たちと共にあるためであることを知っています。しかし人間たちは、今でも神様抜きの人間世界、神様抜きの自分たちの人生が全てであると考えています。これは間違いです。人間は神様と共にあるべきなのです。人間世界は神様と共にあるべきなのです。神様抜きで人間世界は正しい道を進めると思い違いをしています。神様が人間を愛し、神様が人間世界を愛してくださるから、人間に人間世界に希望があるのです。神様が私たちと共にあろうとしてくださるのですから、喜んで私たちは神様に愛され、神様に導かれて、自分たちの人生を全うしたいと願います。ですから私たちは決して義務ではなく、人間が本来神様と共に生きて行くのは当たり前だからこそ、神様と共に生きて行こうとしているのです。

2) 神と人に愛されて 
 両親でさえイエス様のメッセージが理解できない中、イエス様は両親に仕えて行かれました。それは、本来私たちがイエス様に仕えるべきですが、時が来るまで、理解できるまで私たち人間を愛して、忍耐してくださる神様と同じ様に、私たちのためにイエス様は忍耐し、仕えてくださっているのです。最後の52節に、イエス様は、知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された、とあります。しかし実は愛されたという言葉はありません。代わりに恵み、という言葉があります。神様と人間の恵み、それによってイエス様が成長されたと記されています。実は今日の箇所の直前、40節にも神の恵みに包まれていた、とあります。神様の恵みは分かりますが、人間の恵みとは何でしょうか。イエス様が赤ちゃんから成長し、私たちの救い主キリストなられるまでの間に、時が必要であり、人間たちの力も必要なのです。つまりイエス・キリストには人間が必要なのです。人間たちの関わりが、人間たちとのつながりが、イエス様がキリストとして私たちの前に現れるために必要だとしてくださっているのです。イエス様はとことん私たち人間と共に歩んでくださいます。わたしたちと共に歩んでくださいます。神様とイエス様に養われ、導かれて、新しい1年を生きて、全うして参りましょう。