創世記2:4b-9節、15-25節 マルコ10:2-12節
1)地上には草も生えなかった
創世記第1章1節は、初めに神は天と地を創造された、とあります。創世記第2章4節後半からは、第2の創造物語が始まります。最初のものとは全く異なる天地創造なのです。主なる神が地と天を造られた時、と始まっています。異なる視点で世界の創造が語られています。美しいこの地球を汚し、壊しているのは人間です。人間がいなければ世界はどんなに平和と愛に満ちている事でしょう。しかし聖書はそう語ってはいません。地上には草も木も生えていなかったとあります。地球上の大地には水がなかった、神様が雨を与えなかったからだと示されています。第2の創造物語を読む時に大事なのは、第1の物語のように段階、順番、秩序などを離れて読む必要があるのです。大地はそのままでは草木も生えないのです。命が生まれて行くために、そこに水が必要となって来ます。そしてさらに人間の手が必要なのです。土を耕す人間が必要なのです。人間は地球にとっていらない存在などでは決してないのです。この世界に生まれた者は、ただそれだけでは意味をなさないのです。何かが必要であり、何かと組み合わされ、出会い、何かが働いてこそ、真の価値を生み出すものであると神様は世界を創造されたのだと教えています。例えば、人間もこの地球と同じもので出来ていますが、その人間には神様が与えてくださる霊が必要なのです。その人間がいてこそ地球は真の価値を生み出して行くのです。神様は人間が独りでいるのは良くない、とおっしゃっています。そこで神様はアダムに色々な生き物を見せるのですが、どれも相応しいものではなかったという結論です。人間にとって最も相応しい存在は、人間です。人間は人間から生まれるのです。又女は男から生まれたということにも、男が先で女が後だということにも、この物語では意味がありません。相応しい助け手というのは、調度良いお手伝いさんぐらいのものとお考えになってはなりません。私たちにとって唯一な存在である何か、誰かです。
2)ホレブ山の預言者エリヤ
今祈祷会で預言者エリヤの物語を読んでいます。カルメル山でバアル崇拝者たちと対決して、聖書の神様こそが真の神様であることを見事に証明して見せましたが、命を狙われ、恐ろしくなって一目散に逃げ出し、遂には神様に導かれるように契約の山ホレブへ導かれました。そこで神様は問いかけています。あなたはここで何をしているのか、と。エリヤは答えます。一生懸命神様のために働き、戦って来たのです。しかし今は私一人だけしかいません。一人ぼっちなのです。もうどこにも行けません。そこで神様はご自分が臨在している事、主なる神様があるということをエリヤに示そうとするのです。まず大風が起こり、地震、火が次々と起こりますが、結局エリヤはその中に神様を見ることは出来なかったのです。つまり私たち人間には神様の臨在を見ること、確かめることは出来ないのです。しかし神様の御声が静かにエリヤに響いて来ます。来た道を戻りなさい、と。神様はエリヤに代わる阿新しい預言者エリシャを与えられました。そしてあなたは一人ぼっちだといったが、神様を信じる7000人を残すとおっしゃいました。あなたには見えないし、知らないが、あなただけが一人あるのではない。あなたを助ける相応しい助け手が必ず神様によって備えられています。私たちは、相応しい助け手と共にあることで、本来の意味を、価値を取戻し、生み出して行くのです。