コヘレト 3:1-13、テサⅡ 3:6-13
1)コヘレトの言葉
ユダヤでは仮庵の祭りの真最中です。仮庵の祭りは秋の収穫祭です。仮庵の祭りの時に読まれる聖書の箇所の一つが“コヘレトの言葉”です。私たちの生きている時、時代、季節は、ただ無意味に、只流れているだけではないのです。あらゆる時に定められた時があるのです。私たち人間に与えられた時も必要な時が定められているのです。時は唯勝手に流れ、進んでいるのではありません。以前ある教会でこの御言葉を語りました時に、ある女性信徒から、都合の良い話があるものですね、と鼻で笑われたことがありました。それはまるでご都合主義の様にしか思えないのでしょう。人間にだけこの時、季節が分からない、とても残念なことです。これだけ豊かな季節を与えられた土地に生きているのに。私たちが生きている時は、実に必要な定められた時を生きているというのに。無駄な時などと言う時は無いのです。全ての時に意味があり、私たちの人生にとって定められた時があるというのです。ただ神様だけが全てをご存知です。神様が与えてくださった時、季節は実に見事、実に美しい、これがコヘレトの語る時というものです。ただどんなに人間がその時、季節を知ろうとしても、私たちは神様の様に時と季節の全てを知ることは許されてはいないのです。ただ神様が与えてくださる時を、私たちは信頼し、信じ従うべきなのです。必ず神様は私たちに最も良い時をお与えくださるのです。
2)働かざる者食うべからず
有名なこの言葉、今日のテサロニケ3:10の御言葉です。ところが言葉だけが独り歩きして、働かない者、仕事の出来ない者、労働しない者に食べること、生きる権利はないかのように言われた時代もありました。決して聖書の御言葉はそんな事を教えてはおりません。まして御言葉の示すことは、病気や高齢、しょうがいがあって労働が出来ない人には生存権が無いという事を意味していません。テサロニケ教会の兄弟姉妹に書かれたこの手紙は、教会の兄弟姉妹たちの中に主の再臨を誤解している人たちがあって、その誤解を解くために書かれたものです。キリスト教会は、その最初からイエス様が再び来られるという希望を持っています。それは神様の御業の全てが完成されることを意味しているからです。私たちはまだその途上にあるのです。しかし、愛する兄弟姉妹たちの中には、主の再臨を何か恐るべきことと考えて、不安でたまらない人たちがいたようです。ただ無駄に騒ぎ立てている人たちだったのです。7節に、怠惰な生活、とあります。何もこのような人々はぐうたらな生活をしていたのではなく、無意味なことをしていたという意味です。そしてなすべきことを何もしなかったのです。例えば今日核兵器だ、ミサイルだ、戦争だ、という噂はあちこちで聞きます。当然不安になります。そして世界の滅亡だ、終末だ、神様の審判の時は近いなどと言い出す者がやたらに増えて来ます。そのような無意味なことをしてはなりません、と聖書は教えています。では何をすべきなのか。落ち着いて仕事をしなさい、と教えています。私たちそれぞれに与えられている仕事を、生活を、使命を果たしなさい。もし明日主イエス様の再臨があったとして、世界の終末が来ることがあっても、神様が私たちに求めているのは、落ち着いて仕事をすることなのです。神様を信じて、神様が備えてくださる時を信じて、わたしたちは今日も明日もイエス様に導かれて、なすべきことをするのです。私たちに与えられているなすべきことをしましょう。それが神様の御心なのです。