創世記 45:1-15節、ヤコブ 2:8-13節
1)わらの書
マルティンルターから始まった宗教改革ですが、そのルターが、今日お読みいたしましたヤコブ書に対して、わらの書、と呼んで、新約聖書の中で読む価値のない書であるとしたのは有名な話です。ルターが当時の教会に対して抗議をしたのは御存じのように、贖宥状が売られ、人間の罪と救いがお金で売買されていたからです。人間を愛し赦されるのは誰か、神様だけではないか。何故人間がその罪と救いを金で売り買いできるのか、そのようなことを人間はしてはならないと確信していたからです。善行を行わなければ、信じているだけでは救われない、というのは間違いです。ただ神様の愛によるのです。しかし行動のない信仰、生き方と全く関係のない信仰、もしもそんな信仰があればですが、そのような信仰は意味がありません。さらに神様に立ち帰ることのない信仰者の行動は、ただ単なる独善的な行為でしかありません。
2)ヨセフの生涯
ヤコブさんの12人の息子たちの物語。末っ子ベニヤミン、その上がヨセフです。ヤコブさんはヨセフをとても大事にしました。逆に兄たちの妬みを産むこととなってしまいます。ある時ヨセフは兄たちに殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られます。その後も数奇な出来事を経て、ヨセフはエジプトのファラオに次ぐ地位を得るのです。そこに兄たちがエジプトへやって来ます。大変ひどい飢餓が何年も続いたため、食糧を求めてやって来たのです。ヨセフは兄たちに自分を示し、仲直りすることを求めます。方や兄たちは戸惑います。ヨセフは、「私をエジプトに連れて来たのは、お兄さんたちではない。神様が私を連れて来たのです」と。ヨセフがこう考えるようになったのは最初からではありません。又ヨセフが出世したからでもありません。ようやくヨセフはこれが神様によって導かれた結果だと理解できるようになったからです。しかし一般的に人間はこの様な考え方をしません。見えません。ヨセフは苦労してエジプトの首相になったとしか見えません。神様がヨセフと共にあって、ヨセフは生きて来たことを知らないのです。この後父ヤコブはエジプトに移住しますが、ここで召天します。兄たちは父がいなくなったので、ヨセフに復讐されるのではないかと心配します。もう既に神様に赦されていることを、人間が信じるのは時間がかかるのです。
3)憐みは裁きに打ち勝つ
ヤコブ書が訴えていることは、神様を信じる者だからこそ聞くべき御言葉です。神様を信じている者たちの間で、差別があるからです。分け隔てがあるからです。そのようなことは神様を信じる信仰から出て来るのではありません。人間たちに植え付けられた偏見から出て来ます。神様に愛されていても、自分自身の秤でしか測れないからです。自分を測るだけならまだよいですが、自分の秤で隣人を計ってしまうからです。今日のヤコブ書の最後に、「憐みは裁きに打ち勝つのです」と結論されています。私たち誰もが神様の前には完全ではありません。それでも神様は私たちを愛によって包んでくれます。ヨセフが気づいたように、これまでも私たちは神様の愛に包まれていたのです。その時ヨセフは全ての憎しみ、謎が解け、神様への大きな感謝に包まれました。私たちに必要なのは、自分の秤で測り続けることではありません。神様に立ち帰ることが必要なのです。そこから私たちは行動します。