ハバクク書 3:17-19、ローマ 8:18-25
1)生老病死
かつてお釈迦様が教えられたように、人間の苦しみは、生老病死と呼ばれました。病気、老い、そして死。人間として生まれた瞬間からこの苦しみは始まっていると説かれました。ところが最近は病気もある程度は克服されています。このまま人間が恐れている病気は無くなる可能性があります。又高齢になられても皆さん人生を楽しんでおられます。もはや誰もが100歳を超える時代がやって来ているとも言えます。そんな時代の人間たちには、死はもはや恐ろしくなく、十分生きたからもうそろそろお迎えに来て欲しいということになって行くかもしれません。こうした現代の傾向を私たちは決して悪いものだとは思いません。誰もが病気から解放され、元気で長く生きることが出来る世界。そのことが可能な平和で豊かな社会が維持されることは素晴らしいことです。元々聖書では、世界は神様がお造りになったものです。人間たちに与えられた地上の生活が幸福であることは、神様が創造された通りです。
2)呻きながら待ち望んでいる
人間を苦しめて来た生老病死。随分と変わって来たようです。ところが人間がどんどん元気で、長生きするようになると結果的に人間は死を求めるようになると推測されています。健康で長生きが出来るのにそんな人間が何故死を求めるのでしょう。私たちはそれこそ人間は最終的には神様の所に帰るもの、神様のところに帰りたいのだと結論するが出来ると思います。全てのものの源が神様であるなら、私たちの命も神様から出ています。そして地上で人間たちがどんなに健康で長生きが出来ても、最後には神様の所に帰りたいと思うのです。神様から離れていることがわたしたちの不幸であり、不安なのです。ローマ書は、被造物がいつのまにか虚無に服していると教えています。それは自分たち自身の意志でそうなったのではなく、服従させられたのだとあります。だから被造物は神様の所に戻りたいのです。今の世界は人間の努力でそれ相応の世界にはなっていても、やはり最後には神様の所に帰りたい、本来あるべき所に帰りたいのです。神の霊を受けた人間たちならいっそうその思いは強く、神様の元に帰ることを願うものでしょう。しかし既に神様と人間との関係は破壊されています。そこで神様はイエス様を遣わして、イエス様が作ってくださった命の道を通って神様の所に帰るようにされたのです。
3)臨死体験をした牧師
先日岡山の牧師さんが臨死体験をしたお話を聞きました。ある日交通事故で意識不明に陥、その時臨死体験という不思議な体験をされました。牧師はとっても不安でしたが、隣に座る人があり、その人により安心を得ました。牧師は隣の人に質問をします。これからどう生きていったらいいかとの問いに、単純でありなさい、と言われました。素直でありなさいという事だそうです。最後に今後どのように行動したら良いでしょうか、との問いに、行動するよりも大切なことは、あなたの口で語る言葉だ、とおっしゃったそうです。その人は、神様はいつもあなた方と共にいることを伝えなさいと教えたそうです。牧師はそれまでとっても気負っていて、もっと頑張らなければと思っていました。隣人は牧師に神様の御言葉を素直に聞き、信じて、歩んで行くことが全てなのだと教えられたそうです。わたしたちも神様が示された御言葉を信じて、進んで行くだけです。