ホセア6:1-6、第2コリント5:14~6:2
1)偽りの悔い改め
最初にホセア書を読んでいただきました。小タイトルに「偽りの悔い改め」とあります。6:1~3は人間たちの偽りの悔い改めが記されています。「神様の元に帰ろう」、と呼びかけています。実に調子の良い偽りの悔い改めなのです。「神様は我々を生かし、立ち上がらせてくださる」、とあります。その通りであるならこんな幸せなことはないのですが、全部人間の勝手な絵空事なのです。真に悔い改めしているなら神様は赦してくださるでしょうが、反省も謝罪もなく仲良くしましょうという実に身勝手なものなのです。4節以下が神様の言葉です。「お前をどうしたらよいのか、朝の霧のようだ、消え失せる露だ。」神様は御言葉をもって滅ぼすとおっしゃっています。人間が何度も繰り返し、神様の愛に背き続け、都合の良い時に神様は私たちを助けてくださると、あまりの身勝手さに、神様はほとほとあきれ返っています。
2)わたしが喜ぶのは愛であって生贄ではない
神様は私たち人間の身勝手さに対して御言葉をもって滅ぼすとおっしゃいます。御言葉によってというところにまだ救いがあるのではないでしょうか。私たちは信仰の自由を否定すべきではありませんが、やはり違和感を覚えることもあります。今神社ブームだそうです。なにか知らねど畏きものがおられるような雰囲気があると言われ、徹底した現世御利益が神社信仰の特徴です。ある神社ではお参りすると宝くじが当たって億万長者になれるところがあると言います。神様をお参りすると大金持ちになれるという信仰はどうなのでしょうか。ソロモン王を思い出してください。ソロモン王は優れた王でした。神様から愛され期待された人間です。ところがその晩年ソロモンは神様から離れて行きました。あらゆるものがソロモンに与えられていたのに彼は神様から離れました。ソロモンは最初から王子様で王様になり、彼には何もないという時がありません。いつも何でもありました。ダビデのように逃げ隠れし、耐え忍ぶこともありません。ダビデには何にもなく、ただ神様を頼り、信じる道しか残されていないことが多々ありました。この違いが二人の道を違うものにしています。ある神社ではすぐさま御利益があったとして喜ばれているということです。しかし私たちの信仰から見ますと、それはどうなのでしょうか?何でも人間の願う通りに適えられる神信仰。逆に私たちの神様は、すぐさま応えてくれないことが多いです。しかし神様はとことん私たちにもはや決して離れることのない信頼、信仰を求めています。苦難を一緒に乗り越え、耐え忍ぶ中に育てられる神様との間の強い信頼と絆。まあキリスト教はいつもそんなことを言っているから若い世代に受けないとも言われます。忍耐、へりくだり、悔い改め。もっと明るく軽くないと受けない。みんな逃げちゃうと。それも良く分かります。しかし神様の愛が求めているのは、実に深いつながりなのです。永遠に離れることのない愛の関係なのです。薄っぺらい表面だけの関係が求められているのではないのです。イエス様は、最後まで耐え忍ぶ者は救われると教えました。神様は平和と和解を求めています。平和と和解のために私たちも用いられています。私たちは不安を乗り越えて行く力が信仰が必要です。困難が起こるとすぐさま逃げ出すなら、平和と和解は生まれないのです。「神様はイエス・キリストによって世界をご自分と和解させました。私たちの罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」。既に私たちは何度も恵みの日、救いの日を神様に与えられています。これからも私たちは神様の愛に立ち帰りましょう。