2017年7月30日 朝礼拝 『神は完全に、速やかに』大賀幸一牧師

創世記21:9-21、ローマ 9:19-28
1)ソロモン王 
 今祈祷会では、列王記を皆さまと呼んでおりますが、先週は有名なシェバの女王がソロモン王を訪ねて来るシーンでした。ソロモン王は実に恵まれた王様。神様によって知恵と富と名声を与えられました。世界中から賞賛され、ありとあらゆるものをソロモン王は持っているのです。だからと言ってソロモン王が幸せで、成功したとは言えません。ソロモン王は晩年神様に背き、再三神様に戒められたのにも関わらず彼は自分を改めることが出来ずに終わりました。疑問はあれだけ神様に愛され、期待された王様であり、知恵も富も名声も与えられた人間が何故最後には神様に背き、離れて行ってしまうのか、ということです。

2)神はなおも人を責められるのか 
 ローマ9章は、神様の選びについて書かれています。神様が選ばれる道は絶対であるという事です。アブラハムの息子約束の子であるイサクの話しが紹介されています。アブラハムとサラの間にはなかなかこどもが与えられませんでした。でも神様は必ずあなた方の間に約束の子が産まれると言われたのです。それでもアブラハムとサラは待てなかったので、サラに仕えるハガルという女性との間にすでにイシュマエルが生まれていました。そして遂に約束の子イサクが誕生します。ところがここに問題が生じます。サラはハガルとイシュマエルが邪魔になるのでアブラハムに追放させるのです。実にひどい話ですが、イシュマエルもアブラハムの子として一つの民族とすると神様は約束されるのです。そのイサクとリベカとの間に生まれる双子、ヤコブとエサウについて、神様は最初からヤコブを選ばれました。それ故にエサウは選ばれませんでした。どうしてヤコブが選ばれ、エサウが選ばれなかったのかについて神様は説明してくださいません。ただ神様が選ぶということは、絶対であり、人間が変えることは出来ないことを教えています。そんな神様の選びに対して、一体誰が文句をいうことが出来るでしょうか。ところが人間はアダムとエバ以来ずっとこの神様の選びに逆らい、反抗し、否定し続けて来たのです。神様の選びがすんなり受け入れられたことはないのです。

3)憐みの器として選ぶ 
 神様の選びというのは、私たちを憐みの器として選ぶという事です。私たちを滅びる器として選ぶという事を神様はなさいません。神様の選びというのは、私たちを滅びから脱出させて、神様の憐みと愛に溢れる器になるようにするという選びがあるだけです。しかし神様が選ばれるという事は、選ばれなかったものがあるということです。選ばれなかった者たちは、神様の選びを受け入れず、否定したりしました。そうして神様を苦しめて来たのです。しかし神様に選ばれなかったは、滅びの道に行くという事ではありません。イシュマエルは滅びませんでした。エサウの一族も決して滅んでいません。神様の選びを疑うのでなく、否定するのでなく、神様が愛を込めて選ばれたことを私たちは信じるべきなのです。しかし、人間たちは神様の選びを信じず、受け入れなかったのです。神様の準備した道は、破壊され、ズタズタにされて来ました。それでも神様は私たちの事をあきらめずに、導いて来られました。どのように導いてこられたのか。それは寛大な心で耐え忍び続けて来られたのです。わたしたちのことをあきらめてしまって見捨ててしまうのでもありません。神様には秘策があります。どんなに神様の準備したことが破壊されても、最後の最後の残された道があるのです。残された者があるからです。私たちが学ばなければならないのは、このように神様はいつも私たちを寛大な心と愛で待ち続けているということです。私たちは神様が備えてくださっている道を、私たちのために選び与えてくださっている事柄を信じるべきです。神様の言葉を聞くことが、神様に祈ることが私たちの人生を導いています。